ドン・キホーテ

 

坊っちゃん

坊っちゃん

 

 

「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」。

 ただし、本人の言うことには。

「おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた」。

 ただし、本人の言うことには。

 

 誰しもが引き込まれずにはいられない古今無双のリズムとスピード、読者は否応なしに「おれ」へと取り込まれていく。なるほど一度その文体に身を委ねてしまえば、この小説は紛れもなく颯爽たる武勇伝。ところが落ち着いて字面の情報のみを並べ直してみると、威風堂々凛として快刀乱麻を断、ってなどいないのだ、まったくもって。

 その語り口のままならば、理の通らない連中に勇猛果敢立ち向かうヒーローのはずなのに、実は至る所でぶざまなまでにやり込められる。

「生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と出来そうもない幾何の問題を持って逼ったには冷汗を流した。仕方がないから何だか分らない、この次教えてやると急いで引き揚げたら、生徒がわあと囃した」。

「『イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ』/『誰も入れやせんがな』/『入れないものが、どうして床の中に居るんだ』/『イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ』/『馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え』/『云えてて、入れんものを説明しようがないがな』」。

 このやりとりを冷静に見れば、軍配はいずれも相手方に下る。

 それでも本人に言わせれば、「おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも遥かに上品なつもりだ。(中略)上部だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。実は落ち付いているだけなお悪るい。おれには到底これほどの度胸はない」。

 そして決定的なシーンが教員会議で訪れる。

「腹案も出来ないうちに起ち上がってしまった。『私は徹頭徹尾反対です……』と云ったがあとが急に出て来ない。『……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いです』とつけたら、職員が一同笑い出した」。

 

 この作品、ある種の叙述トリックで構成されている。つまりは、文体を通じて表現される勇壮な自画像と、その傍らで示唆される、度胸も理もない「おれ」の現実。

 そんな徒手空拳を支えるアイデンティティが、ひとつには「江戸っ子」。

「おれは江戸っ子だから君等の言葉は使えない」だの、「東京と断わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法きたない」だの、「わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった」だのと口調だけなら気風はいいが、実のところは空虚な自己を「東京」で塗り固めてひたすら悪態をつきまくっているに過ぎない。都市の先進性を前提に無批判で周縁を笑う、むき出しのオリエンタリズムの作法、それはまるで遠くロンドンの地にて、東洋人という理由だけで見下されやがて「神経衰弱」に至った小説家のねじれ切った鏡像のように。

 

 数多のエピソードから察するに鬱病もしくは統合失調症、脳の器質的毀損に基づく苛立ちや孤絶に蝕まれる夏目金之助の生活は、文章をしたためることを通じて、すなわち漱石へと変身することを通じて、束の間忘却される。

 

 分裂し切った現実と空想、『坊っちゃん』が描き出すものとはつまり『ドン・キホーテ』に他ならない。そう見立てれば説明がつく、胸中深くに従える、肯定感を担保する清の存在はまさしくサンチョ・パンサと互換性を持ち、騎士道のレンズ越しに田舎娘がドルシネアに様変わりするように、例えば校長を狸、教頭を赤シャツと読み換える。そしてその瞬間、「おれ」の物語は外へとつながる回路を失う。

 そんな「おれ」と周囲を結ぶものと言えば、肉体に刻まれる傷。

 親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ。

 物語などどこにもなくて、痛みによってのみ、生はその証明を得る。