サボテンの花

 

 聞きなれた言葉であるがゆえに、実体があると思い込んでいるもの。しかし、よく考えてみると、それは実際に存在するのか否か曖昧模糊としており、もしかしたら幻想に過ぎないのかもしれないと思えてくるものがある。その一つに、「おふくろの味」という世界がある。

 この本を手に取ったあなたは、「おふくろの味」という言葉から、まず、どのような世界やイメージを思い浮かべるだろうか。イメージではなく、具体的な一品を思い浮かべる人もいるかもしれない。ところが、そのイメージや一品を友人や同僚、家族などで披露し合ってみると、意外にもその多様性に驚かされることになる。

 茶色っぽいおかず、ほっとする味、田舎の風景、具体的な食べ物ではやっぱり「漬物」でしょう、絶対「肉じゃが」ですね、いやいやオムライスに決まっています、「ポテトサラダ」じゃないの、という意見が飛び交うかと思えば、そもそも「おふくろの味」といえるようなものには縁がなかったという人もいる。そのため、「おふくろの味」はイメージなのか、実体なのか、それとも実際には存在しない幻想なのか、複数の意見はいつまでたっても一致する気配がない。

 それなのに、私たちは何となく、「おふくろの味」といえばこういうものである、という根拠のない合意が世間一般に存在していると思ってはいないだろうか。「おふくろの味」とは何かと問われた時に出てくる答えに対して、「意外にも」その多様性に驚かされるのは、そのためである。

 

 私が「おふくろの味」という語から連想する光景といえば、居酒屋ののぼり。といって、具体的にあの店という記憶を持つでもない。外食、中食に対してアンチすら超えてもはやヘイトの域に達した私にとってこの語が暗黙に指し示す含意といえば、つまりは単に素人の手による不出来なエサ。料亭などで修業を重ねて、専門的なフォーマットをインストールしたわけでもない人間が作った代物なんだから、味や見た目がお粗末でも、衛生面がどれほど蔑ろにされていても、ガミガミ言うのっておとなげないよね、っていうか頭おかしいよね、という弁明に見せかけた下からマウンティング。そうして供されるポテサラやコロッケがどこから来ているといって、当然のように手作りですらなく西原商会プロデュースの何か。

 もちろん、この記述が世のパブリック・イメージと乖離したものであることくらい知っている、もっとも現実の食品産業で営まれるリアルといえば、この水準ですらもそのはるか下をおそらくは行っている。

 

 もちろん、こんなクズのクズによるクズのためのカーニバルををまくし立てたくてこの本を読んでいたわけではない。

 だいたいの論旨を踏まえた上で、あらかた書くことも脳内でまとめて、あとはどこを引用しようかと読み返していたところ、なんのことはない、プロローグにおいて既に核心が予告されていたことに気づく。

「同時代を生きながら、男性と女性とでは、それぞれが見ている景色が違い、感受するものが違い、まるで別世界を生きているように感じることがある。そしてそれは、男性と女性の違いだけにとどまらない。世代や暮らしている場所、また個人の嗜好や価値観などにも影響されつつ、私たちは同時代にありながら、実はそれぞれの感受性によって固有の世界を受け止め、描き、その世界を生きているのである」。

「同時代」という共同幻想から覚めて、それぞれがそれぞれの「固有の世界」を生きることしかできない、そのことに気づいてしまった、いや、気づかざるを得なかった、その精神史を本書は「おふくろの味」という語彙を通じてせっせせっせと紡ぎ続けていた。

 それはたぶん、フォークソング受容の変遷と限りなく軌を一にしている。60年代、70年代フォークの中で描かれている通りの体験をした者なんてほぼいない。けれども当時の聴衆は、曲の中に描かれる心象風景を互いに共有できていると信じていただろうし、少なくとも、リテラシーはシェアできていると信じていたに違いない。ところが今になってみれば、そんなものはなかった。没入した過去を伏せて歴史修正主義的に改竄しているわけでもなく、当時から各人が好き勝手に見たいものだけを見ていた。共通性があるとすれば、それはテレビやラジオの同時接続経験という程度に過ぎない。けれども彼らはそれでよかった、歌詞すら読めなくてもそれでよかった、なぜならば一億総中流という架空設定の中で、少なくとも同じセグメント内において何かをシェアできているという体裁の座組をなあなあでキープし続けることこそが無難だったから、その含意を突き詰めるという面倒な作業から目を逸らすことこそが幸福につながると彼らは心底信じていたから、もしくは単にその能力を持たなかったから。

「おふくろの味」が立ち現れたのも、そうした共同幻想の信仰の場においてだった。農村から都市へ、高度成長のただ中にあって、食に寄せる望郷の念など、そもそもからして空洞化していた。電気冷蔵庫の普及や物流環境の発達、農業生産性の向上などによって、食卓の風景はもとより旧来と同じであれたはずがない。調理法を引き継ごうにも機器などの前提からして違う、知識の伝承など起きようがない。では何がいろはを教えてくれると言って、それらは専らテレビやレシピ本といったメディアに丸投げされた。その中で、「おふくろの味」はいわばでっち上げられた。これ自体もまた幻想の産物に過ぎない専業主婦ベースの中流家族のスタンダードを形成するに津々浦々のローカリティはむしろ捨象されるべき要素で、かくしていつしか母なる大地としてのふるさとという仕方で「おふくろ」というフォルダーへと吸収された。同じ味をシェアすること、「おふくろの味」をシェアすること、より正確には、「おふくろの味」の観念をシェアできていると信じられること、これこそがまさに一億総中流幻想の明確な表象だった。

 そんな幻想から否応なしに覚める、いや、覚めざるを得なかった、それはつまり偏に経済の崩壊によって。

 

 筆者は「おふくろの味」が幻想でしかないことがもはや周知された現代の光景、各人が「固有の世界」を生きるその光景、しゃらくさい「おふくろ」像がひとまず焼き払われたかに見える光景に希望を読み解こうとする。

「料理は生きることを豊かにし、楽しむためにある。だから、自分の感性を信じて気楽に行こう。そうすれば、おのずと味から思い描ける世界は伸びやかに広がっていく。21世紀の食は、そんな風に転換していく予感がするのである」。

 対して私がここに重ねてしまうのは、分断の光景である。すなわち、自ら「固有の世界」を掴み取ったわけではなく、単に「固有の世界」へと切り捨てられたに過ぎない、と。「おふくろの味」の抑圧から解き放たれたわけではなく、単に梯子が外されただけなのだとしたら。それは奇しくも筆者がかつて『7袋のポテトチップス』で描き出した、あの寒々としたデッサンの数々に果てしなく似て。

 実際、引用されているデータは、筆者の提示する「気楽」な未来像との著しい違背をあらわす。「賃金が上がらないにもかかわらず、物価が上がる昨今の世の中では……その節約の対象の大きな部分を『食費』が占めている」、コスパにおけるこの傾向はタイパとなるとさらに顕著なものとなる。「『遊び』や『来客』、『帰省』など、様々なイベントに時間と労力が割かれ、食事をつくったり、食べたりする時間や労力を確保できない」。つまり、社会調査が指し示すに、各家庭の「固有の世界」においてかつてならば「おふくろの味」とでも呼ばれていたかもしれない映えない食のプライオリティは、「伸びやかに広が」るどころかますます低下の一途をたどっている。

 SNSの薄っぺらい共感ごっこをあざ笑うように、何もかもをもシェアしない、家族間ですらもテーブルを囲まない、いやもはや囲むことができない、その分断を食が何よりも雄弁に反映している、筆者の論を換骨奪胎するようにそう捉え直すとき、例えば昨今の土井善晴が「利他」を盛んに強調していることはいかにも示唆的である。小林カツ代からのインスパイアを公言する枝元なほみの献身も強力にうなずける。こうした彼らのコミットメントが、自ら作るものとしての料理を通じて引き出されたことに誰が異論をはさめよう。

 

 選んだ孤独はよい孤独かもしれないけれど、もしその孤独が受け皿もなく単に投げ出されただけの結果なのだとしたら……。

 そして間もなく、「固有の世界」すらも維持できない、そんな日々が訪れる。

 

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