「柔弱は生路なり、強硬は死路なり」

 

 新憲法制定の経緯については、当初から大きな謎がある。最大の疑問は第9条の戦争放棄条項が設けられた事情だろう。

 ダグラス・マッカーサー最高司令官が率いる連合国総司令部(GHQ)が持ち出して起草を命じた「押しつけ」なのか、それとも日本側の発案なのか。GHQの「押しつけ」であるなら、幣原氏は「日本国憲法をつくった男」というよりも「日本国憲法をつくらされた男」ということになる。

 謎は70年が過ぎた今も解明されたとはいえないが、一つだけはっきりしているのは、この問題の鍵を幣原氏が握っているという事実である。

 

 194510月、マッカーサー内閣総理大臣就任後間もない幣原と面会を果たし、その場で「婦人参政権の実現、労働組合の結成奨励、教育の自由化、秘密警察等の廃止、経済の民主主義化」という5つの改革を指示する。この段階ではまだ軍備の不保持、交戦権の否認への言及は見られないことは確認できる。

 その原則が現れるには年をまたがねばならない。改憲にあたって書き込まれるべき必然については既に周知のところ、極東委員会の介入を前に、平和主義をトレード・オフに天皇制維持の既成事実化が急がれた。ターニング・ポイントとなるのは1月に持たれた元帥‐首相会談の席上、この点も明白、しかし両者のいずれが口火を切ったかとなると、これが杳として判然としない。

 一方のマッカーサーは男爵亡き後、米国議会の公聴会で幣原の発案であることを明言している。といって、それを裏づける会談の議事録が残されているわけではない。この突然の証言は日本側にしてみれば寝耳に水で、時の外相・吉田茂をはじめ、閣僚は軒並みGHQ説を唱える。朝鮮戦争に日本軍を動員できないのは憲法9条の障壁による、そう咎められたマッカーサーが苦し紛れに責任をなすりつけただけ、との説には一定の説得力も認められる。

 対して、傍証と言えばややことばが過ぎるだろうか、しかしいずれにせよ、本書はこの「日本国憲法成立をめぐる最大の謎」の鍵を外交官・幣原喜重郎のキャリアに求める。

 

 エマヌエル・カントやバートランド・ラッセルといった仰々しい名を引かずとも、軍縮や不戦をめぐる問題意識は、とりわけ第一次世界大戦を受けて、世界の外交官、政治家には広く共有されていた。事実として、1928年には武力ではなく折衝に基づく解決を志向する不戦条約、いわゆるケロッグブリアン条約は日本を含む主要先進国によって締結されていた。そして当の幣原自身も、ワシントン会議における海軍軍縮の合意締結に一役買い、既に国際的な知名度を確立していた。

 しかし、その協調主義的な姿勢は時に国内では「軟弱外交」との酷評を受ける。やがて軍部の台頭にあって、一度幣原は表舞台からの退場を余儀なくされる。そうして戦後復活を果たした老翁が、一連の意趣を返すべく、忸怩たる思いを晴らすべく、戦争ではなく交渉という先見性を明かすべく、軍事力の抑制を新憲法の条項に書き込んだとして、なるほど何の不思議があるだろう。

 他方で、終盤に至る本書の語り口はやはり、天皇を人質に断腸の思いで新憲法案を呑まされた、との有力説にいかにも根拠を与えるものとも見える。そこに次なるミステリーが残される。すなわち、これほどまでにデモクラシーの風を受けた先進的な外交スペシャリストをして、天皇制の護持に固執させたものとは何か。「大権」を剥奪され、「象徴」へと帰してなお、天皇天皇たらしめるものとは何か。所詮は「機関」でしかあれなかった存在に幣原が見たものとは何か。

 仮にもし「つくった」のではなく、「つくらされた」のだとすれば――さて憲法の第1章は、何にあてがわれているだろう。

 

 この高貴なる指導者の言を引くことで結びに代える。

「今日の時勢になほ国際関係を律する一つの原則として、或る範囲の武力制裁を合理化、合法化せんとするが如きは、過去に於ける幾多の失敗を繰り返す所以であって、最早我が国の学ぶべきところではない。文明と戦争とは結局両立し得ないものである。文明が速かに戦争を全滅しなければ、戦争が先づ文明を全滅することになるであらう。私は斯様な信念をもつてこの憲法改正案の議に与つたのである」。