ラ・ラ・ランド

 

 

 近年になって、政治家としての角栄が再評価される。

「決断と実行」を推し進めた突破力、さらには、地方再生やエネルギー問題に対する危機感など、今の政治家にはない魅力が現代人を惹きつけた。

 しかし、「ロッキード事件において田中角栄は、本当に有罪だったのだろうか」という疑問に切り込むメディアは少なかった。

 令和の世に角栄のような政治家を待望するのであれば、彼の負の部分であるロッキード事件を再検証するべきではないのだろうか。

「昭和を正しく検証できないのに、現代を語れるだろうか」という疑問が、私には常にある。

 そして、昭和の総括の一つとして、真っ先に浮かんだのが、「ロッキード事件」だったのだ。

 自民党の長期政権の功罪、金権政治、日米関係、政治と検察庁の関係、さらには熱しやすく冷めやすい国民感情等々。それは、まさに日本の現代史を象徴する事件だった。

 ならば、すべての先入観を捨てて事件を再検証する必要がある。

 尤も、事件から40年以上が経過した今、できることは限られている。

 角栄のみならず、丸紅で逮捕された幹部、児玉誉士夫小佐野賢治、さらには、東京地検特捜部で陣頭指揮を執り、角栄を逮捕した吉永祐介以下、多くの関係者が鬼籍に入っている。

 それでも無謀を顧みず、膨大な資料と、生存者の取材によって、ロッキード事件を、ゼロから再構築してみようと考えたのだ。

 

 奇しくも、時の全日空社長、若狭得治と田中角栄は県境を隔てた隣町に育った、という。苗加と西山、双方の土を踏んだ筆者は、「両者に、大きな違いを感じた。/それは、視界だ」。

 若狭の苗加は、「広い砺波平野に位置し、視界が開けている。何より、はるかに見える立山連峰の神々しい美しさに気持ちも清々しくなるのだ」。対して角栄の西山は、「山に囲まれた谷間に位置し、時に閉塞感を覚える」。

 そこから筆者は推測を巡らせる。「雪に閉ざされるのではなく、悠々と雪に向き合う視界の広さが、若狭のぶれない大局観を育んだのかもしれない。/角栄の場合は、閉ざされた土地から飛び出す行動力、そして豪雪の中から見通しをよくするための創意工夫が、彼の政治姿勢の原点ともなった。/国を思い、国のために命がけで仕事するという同じ志を持ちながら、実に対照的な二人の立ち位置である」。

 ここまであからさまに作意を明示することの巧拙はさておき、この対比が小説の道具立てとしてならば、地勢をもって両者の人物像の差異を暗喩する、極めて印象的なメタファーとして成立していたことだろう。

 しかし本書はあくまでノンフィクションを志向して書かれている。現実の読者は参照すべきリアルを前にたちまち鼻白むことを余儀なくされる。砺波に生まようとも「大局観」の欠片もない人間はいくらでもいるし、また柏崎に育まれようとも「行動力」も「創意工夫」も携えない人間はいくらでもいることくらい、誰しもが知っているのだから。現実の描写に際して、こんなものはこじつけとしてすら用をなさない。

 

 あるいはあり得たかもしれない可能性が拡張された表象世界としての虚構。

 あるいはあり得たかもしれない可能性が消去された表象世界としての現実。

 

 なるほど筆者は、各種資料にもあたってはいる。事件から半世紀を経ようということを考慮すれば、ほぼヒアリングすべき関係者にもアクセスできてはいるのだろう。そうした仕事量を否定するつもりはない。

 しかし、そこから引き出された「妄想」を片っ端から可能性に基づく仮説としてテキスト化してしまうとなれば、もはやノンフィクションとして完全な破綻の相を呈さざるを得ない。

 非公開のままにこれらのアイディアをメモ書きとして、そこから開闢された一編のモデル小説をしたためる、その自由は誰にでも許されている。複数の相容れることもない仮説をひたすら並べて、ただし真相は藪の中として作品を閉じることも、虚構においてならば認められる。

 しかし、本書はあくまでノンフィクションとの宣誓のもとに著されたテキストなのである。ライターとして果たすべきは、あり得るだろう枝分かれを取捨選択していく中で、資料間における矛盾の最も少ない、最も説得力を有する筋立てに基づいて事実を再構成していくことにあるのではないか。思いつくだけなら誰にでもできる、必要なのは説得するための証拠を拾い集めて積み上げていくこと、それがかなわなければ諦める、しかし、残念ながら本書にその熟慮の痕跡は観察されない。

 結果できあがるのは、凶器を呼称するに足る厚みを有しながらも何ら背骨の通うところのない、思うがままのインプレッション。

 本書では、断片に基づく「妄想」から、筆者がそのとき閃いた「真犯人」の名が挙げられていく。いかに事件が「公共性」、「公益性」を満たすものであったとしても、「真実と信じるに足る相当な理由」としては遠く足らず、もはや若書きの名誉棄損案件と見なされようとも文句は言えない。

 

 ストーリーをいたずらに躍らせていく、ノンフィクションとしては愚の骨頂とも称されるべきこの手口は、ところがこのロッキード事件にあっては、既に先んじて実践されていた。その主体とは、検察に他ならない。

「深い霧の中を歩いているような感覚」に満たされた事件としてのロッキード、当たり前のことなのだ。そもそもの立件にあたって、検察は「嘱託尋問」による強行突破を図った。無論、そのような制度は刑事訴訟法その他の規定するところではない。司法取引も当時においては認められていない。これらの初歩的なデュー・プロセスの違背をもって、この案件はもとより事件としての体すらなしていない。その段階で行き止まっていて、その向こう側など語りようがない。ゆえに以後、ロッキードを調査するという試みはすべて徒手空拳を余儀なくされる。そして現に、誰が誰に金を渡したのか、いかなる便宜が図られたのか、といった起訴事実のレベルからの試行錯誤を筆者はたどり直さざるを得ない。

 何を探るべきかすらも模糊としたこの一連のスキャンダルにおいて、あえて明白に指し示すべきものがあるとすれば、それは一点、司法の粗悪を措いて他にない。