平気でうそをつく人たち

 

 グリコだけでなく、森永製菓やハウス食品など菓子メーカーや食品メーカーの経営者の心理を手玉にとり、言葉をもてあそびながら執拗に脅すことで相手を屈服させ、カネを脅し取ろうとしたのがかい人21面相のリーダー、キツネ目の男だった。そのキツネ目の男に率いられた犯人グループもまた、同じような社会環境で育ち、家族的結束で繋がっていた。だからこそ彼らは、仲間割れや裏切りを起こすこともなく、2000213日の完全時効を迎えることができたのである。

 これから私は、江崎社長の拉致ではじまり〈くいもんの 会社 いびるの もお やめや〉と犯人が終結宣言を出すまでの、約1年半に及ぶグリコ森永事件の全過程をたどり直していくこととする。これまで見落とされてきた事実を掘り起こし、知られざる事件構造を明らかにすることで、キツネ目の男の素性と属性、そしてこの男に率いられたかい人21面相のメンバーについて可能な限り正確に描いていくことにしよう。

 

 と、序章から猛々しく切り出してみたはいいが、本書が副題に謳った通りの「全真相」に迫ったとは到底見なし難い。そもそも、この前書きからして既に穴ばかりがひたすらに目につく。あえてネタバレと突っ込まれることを承知の上で言えば、筆者が時効切れのグループの一味に接近して詳細を聞き出したわけでもなく、従ってそのグループ内部において本当に「キツネ目の男」が中心人物であったのかすらも定かではない。「同じような社会環境で育ち、家族的結束で繋がっていた」ことを、彼らの尻尾すら掴むに至っていない筆者がどうして断言できるのかという論拠もこれといって示されることもなければ、当然に「キツネ目の男の素性と属性」なんてことにも迫れているはずもない。

 当時の報道や捜査資料、あるいは関係者証言がある部分についてはまだしも、その隙間を埋めるための憶測が、とにかくひたすらにお粗末なのである。

 例えば筆者がその正体すらも定まらぬ「キツネ目の男」の犯行動機を説明するために取り出したのはたった一冊のテキスト、『平気でうそをつく人たち』。

「キツネ目の男にとって、卑しい犯行計画を拒否されたことで、無意識の層から顕在化した『自分自身の良心の苦痛』や『自分自身の罪の深さや不完全性』を抑え込むには、大企業である江崎グリコや森永製菓をねじ伏せ、悲鳴をあげさせ、要求したカネを払わせる必要があった。単にカネが目的の犯罪とは違った異常さが絶えずつきまとったのは、この男の倒錯した邪悪性に起因していたのである」。もちろん、これに類する証言や手記を本人から得たわけではない。あくまでサイコパスについて論じた通俗書からの印象批評の域など1ミリたりとも出ずして、ここまで臆面もなく言い放つのである。1億歩譲ろう、「キツネ目の男」についての観察は寸分の狂いもなく正しかったとしよう、しかしグループによる犯行であること自体は疑い得ない一連の事件状況において、「かい人21面相」全体の感情論理はこのくだりだけでは決して説明されない。

 

 このファクトと推測がないまぜで展開されていく文体は、全編通じて貫かれる。

「キツネ目の男にとって、多少なりとも計算外だったのは、江崎社長が完全なマインドコントロール下にあると高を括っていたことだ」(p.81)。

「あたかも絶対権力者のような口ぶりで、カネを払ったからこそグリコを許してやったと言わんばかりの文面だ。次に標的とする食品メーカーや菓子メーカーに対し、無駄な抵抗をすることなく、要求されたカネをさっさと払ったほうが得策と、ソロバンを弾かせようとしてのことだった」(p.107)。

「カネは取れないにしろ、森永を血祭りにあげることで、逆らえばどうなるか他の菓子メーカーや食品メーカーへの見せしめにしようとしたのだ」(p.153)。

 枚挙に暇は欠かない、ここまで平然と自身のインプレッションにすぎない何かを並べ続ける、当然に「キツネ目の男」本人から言質など取れていないにもかかわらず、である。心理描写としての妥当性を言う前に、ノンフィクションやルポルタージュの作法として根本的に箍が外れてしまっている。

「平気でうそをつく人」とは、さて誰のことだろう。