化学の授業をはじめます。

 

「わたし」は中国系移民の第二世代。いかにもな英才教育を授けられ、大学院に進むまでは、化学では誰にも負けないとの自負はあった。実際、高校時代に全国区の表彰も授けられたりもした。しかし間もなく思い知る、ルーツのことわざが言うように「空の外側には空があり、人の外側には人々がいる」ことを、世の中には上には上がいることを。かくして研究もすっかり行き詰まる。どうせ何かしらを提出したところで、「科学論文ひとつあたりの平均読者数は0.6人」しかいない。

 2年前からエリックと同棲してもいる。ちらほら結婚を意識しないこともない。「博士号を持った科学者の数のほうが仕事口より多い」中で、どうやら彼はその希少なポストを獲得できそうだ。もっとも、座席はボストンから遠く隔たるオハイオにしかないらしいけれども。

 そんなこんなで、すっかり閉塞感と焦燥感にかられて研究室からも足の遠のいた「わたし」にエリックは精神科医のカウンセリングを薦める。他方で両親は「わたし」の窮状など知る由もない。たとえ打ち明けたところで、叩き上げの父が与えてくれるだろう助言といえば、「おまえには頭と二本の手がある、答えは自分で調べなさい。人生をどう生き抜けばいいか知りたいか? 注意を払え」。

 

 中学校のとき、同級生から言われたジョーク:アジア系の赤ん坊が生まれると、両親は2枚の札を掲げる。「医者doctor」か「博士doctor」。赤ん坊は選ばなくてはならない。

 これまで、このジョークのいろいろなバージョンを耳にしてきた。時代は変わり、もはや「医者」か「博士」ではなく、「医者」か「科学者」、「医者」か「エンジニア」、「医者」か「投資銀行家」。

 これはジョークというより事実の提示だ。

 

 そんなティピカルな両親の期待を一身に注ぎ込まれたひとり娘としての「わたし」。

 この小説はいささか奇妙な構成を取る。エッセイのような語り口を通じて、回想シーンと現在進行形が折り重ねられてはいくものの、なにせ物語が進んでいるような感触がそこにはない。ゆえに、あたかも「わたし」が永遠の現在に叩き落されたかのように、時系列がないといえばない。

 ここに至って進みようも下がりようもない、そのモラトリアム感に日々打ちのめされる「わたし」の状況について、毒親もの、アダルト・チルドレンものとでもまとめることはできてできないことはない。彼らが自ら飛び込んだアメリカ社会の文脈に従えば、日々喧嘩の絶えない父母によって育てられた「わたし」はれっきとした児童虐待の被害者なのかもしれない。

 実際、母とのエピソードのひとつを聞かされた赤毛のエリックは憤慨を込めつつ、「もしうちの母親が僕にそんなことをしていたら、と彼は言う、僕は長いあいだ母を憎んでいただろうな」と。

 しかしチャイニーズ・アメリカンの「わたし」は猛然と弁護せずにはいられない。

 5歳にして一家でアメリカに移り住んだ「わたし」は、ほとんど漢字の読み書きをこなせない、発音にしても四声の使い分けはひどく曖昧だ。それでもなお、中国語をろくに操れない「わたし」でさえも、その奥底にこびりついて離れない「孝順xiao shun」がある。儒教的な道徳に雁字搦めに陥った「わたし」の葛藤を知らされた誰しもが呆れ返ったように言う、「一度くらい、親に立ち向かいなさいよ」と。自分だって分かっている、「わたしは優秀な羊だ」と。傍から見れば、もはやオカルトじみた未開の文化人類学的な観察対象ですらあるのだろう。それでもなお、「わたし」は叫ばずにはおれない、「どこがってわけじゃないんです。母が好きだから好きなんです」。

 

「わたし」が母に対して抱く思いにはもうひとつの理由がある。学位を得るべくアメリカに移り住むことを選択した父のために、彼女は薬剤師という自らのキャリア・パスを投げ捨てることを余儀なくされた。渡米当初の生活費なども彼女が貯えを切り崩すことで一手に引き受けていた。けれども、社会的な名声を受け取ったのは夫の方ばかりだった。彼女の犠牲など、誰も顧みようとはしない。エリックとともにウォーブリンで暮らすことを承諾すれば、その瞬間に「わたし」のステップにも事実上終止符が打たれることになる。天真爛漫なエリックに何の不満を抱くでもない、ただし、ここでも母の影が「わたし」の決断に逡巡をもたらさずにはいない。

 

 アメリカ人になり切れない何かが「わたし」にはある。

 かつて思わずぶつけてしまったことがある、「どうして友達のお母さんたちみたいに愛情深くなれないの、と。すると母は手を胸に当てて、中国人は感情をここにしまっておいて、外には――母は宙を指さす――出さない、と答える」。

「わたし」の思いは、母の思いは他の誰にも通じない、「そんなことは何も言わないのが中国流なのだ。いちばん心のうちに閉じ込めて、月からでも見えそうな壁を築いておくことが」。

 

「中国語で家庭のことをjiaという。……

 母が言う:あんたにjiaがあるってことがあんたのお父さんには大事なの。

 父が言う:お前にjiaがあるってことがお前の母さんには大事なんだ」。

 教育心理学などの界隈の言語に従えば、「わたし」は安全基地を持たない典型的な肖像と映るに違いない。しかし「わたし」は断言できる、「わたし」には両親という「家jia」がある、と。たぶんそれをhomeと翻訳してしまった瞬間に失われてしまう、けれども確たる「家」が「わたし」の内側にはある。

 ある面で、この私小説的なテキストには物語がないといえばない。けれども、すべての「家」という「家」で過ごされる日常に起承転結と呼べるものもたぶんない。

 不合理ゆえに我愛す、それをたとえjiaと読もうがイエと読もうが、きっとそういうことなのだろう。

 

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