地獄の季節

 

 旅は出会いであるといわれる。だが、出会ったものとはかならず別れなくてはならない。この本では、どちらかというと、旅を通じたさまざまな別れをあつかったものが多くなった。

 別れたものは、いきなりいなくなるわけではない。死者が自分の中で生きつづけ、気がつけば対話の相手となっていることがあるように、旅で別れた人や風景や物語もまた、自分の内面に居場所を定め、折にふれてよみがえってくる。

 出会ったときには気にも留めなかった出来事、日記にも記されず、写真にも撮られることもなかった断片的な映像や会話が、時の経過の中であぶりだしのように浮かんでくる。旅の経験は、そうやって熟成と変容をつづけ、いつしか空気や水や光や温度のように自分に寄りそう存在となり、不在を意識すらしなくなっていく。それが別れの成就ということかもしれない。

 

 カイロにて筆者が出会った日本人バックパッカー、その当時で御年なんと71歳。65歳にしてようやく渡った海外の魅力にたちまち目覚めた彼は以来、年の10カ月ほどを異国で過ごすようになる。

 貧乏宿に高齢者がひとり、ならず者たちにしてみればまさしく鴨がネギを背負って現れたようなもの。しかし睡眠薬を盛られようとも、首絞めで意識を奪われようとも、当人は達観したようにあっけらかんと笑い飛ばす。帰国してはじめて実妹が亡くなっていたことを知らされる、ショックを受けたかと思いきや、本人曰く「たまたま、あとに残ったのが自分だというだけやから、なんてことないですわ」。身体がガンに蝕まれ、ボケが回った状態ですらも、「かえって写真を見ていると楽しいんです。行ったことないところを旅しているような気がして新鮮なんです」と言ってのける。そこには武勇伝をひけらかすといった鬱陶しい自意識はまるで見られない。

 

 対照的に、と言わねばならないのかもしれない、筆者自身の旅に超然と悟り切ったかのような爽快感が流れることはない。

 

 やはりエジプトでレズリーというイギリス人に出会う。同宿の縁からなんとなく一週間ほどを共に過ごすこととなった彼女が言うことには、ジューススタンドで飲んだイチゴ味が「カイロでいちばんいい思い出」。そう聞かされた筆者ははじめそのわびしさに胸が詰まる。

 彼女が国へと帰った数日後に、筆者もアテネへと飛ぶ。その機中で思い出すのはレズリーのこと、「寂しそうにしていたとき、声をかけてあげればよかった。食事に誘ってあげればよかった。3ポンドくらいの料理ならごちそうしてあげればよかった。その帰りに、ホテルの前の通りのスタンドでいっしょにイチゴの生ジュースを飲みたかった」。

 

 ある年、筆者はウガンダの森を訪ねる。フィールドワーカーに話を聞くつもりでいたのだが、すれ違いで彼女は首都へと出かけていた。それはまだ携帯電話もない時代のこと、23日もすれば戻って来るだろう、とのスタッフのことばを信じてキャンプで待つことにする。しかし、彼女はなかなか戻らない。

「ほんとうになにもすることがなくなった。/……退屈だった。音楽にたとえるならば、ドの音が1時間つづいて、次にレの音がまた1時間、そのあとミの音が1時間つづく音楽を聞いているような気分だった。あまりに間延びしていて、それが音楽的な音のつらなりだとは認識できない」。

 しかし、そんな日々にさらされるうち、筆者はふと「妙な気分」に襲われる。「はじめは退屈としか感じられなかったひどく緩慢な時間の流れを、それなりに味わい楽しめるようになってきた。/……単調にしか聞こえなかった音が、無数の微細な音からなる織物のように聞こえてくる。ある音は一瞬で途切れ、ある音は生滅を繰り返し、ある音は滔々とうねり、ある音はほかの音とよりあわさったり交錯したりしながら、たえず新たな模様を創造してはそれを崩していく。はじまりも終わりもないそんな音楽が森のあらゆる細部で尽きることなく奏でられつづけている」。

 ようやく来た待ち人に筆者は言った。

「そりゃもう退屈しました。こんなに充実した退屈は初めてです」。

 

 その「退屈」の発見には、筆者の原体験が深く関わっているのかもしれない。

 父親のDVに耐えかねて一家が離散したのは中学生のこと、互いに身を寄せ合って慮って暮らしたかと思いきや、筆者が母をめぐってまず思い出す顔といえば、「挑みかかるような攻撃的なまなざしだ。怒りと恨みと悲しみのないまぜになった暗い炎をたたえたまなざし」。彼女は息子に夫を重ねた。

「そこに行けば自由になれる」。

 その幻想にさまよう筆者は、そうして専ら異国を訪ね「別れ」を綴る。筆者にとっての旅とは、何かと出会うためではなく、何かと決別するためにある。その果てにあるいは瞬間、「新たな今」を見出す。

 

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