ノゾミ・カナエ・タマエ

 

 2021(令和3)年、中野ブロードウェイは誕生55周年を迎えた。

 66年には「東洋一のビルディング」と称され、高級マンションの先駆けだったこの建物も、80年代には過疎化が進みシャッター通りが並んでいた。その間隙を縫うように「まんだらけ」があっという間に中野ブロードウェイを占拠した90年代を経て、00年代から10年代にかけては「OTAKUカルチャー」が世界中を席巻したことにより、各国から観光客が訪れるようになった。……

 そして、新型コロナウイルス禍で世界中がパニックとなっている20年代には、高級時計店の出店ラッシュが続く新たな顔をのぞかせているのが現状だ。

 緊急事態宣言下の中野ブロードウェイは、それまで見たことのない光景だった。

 外国人観光客はもちろん、日本人観光客も姿を消し、まるでゴーストタウンのような終末感漂う、単なる「築50年以上の老朽化したビル」と成り果てていたのだ。

 本書では、さまざまな中野ブロードウェイの一面を紹介したい。

 

 2022年元日のこと、だという。

 中野ブロードウェイに住まう筆者の一室の天井から水が滴り落ちてくる。暮らすようになってから既に15年、漏水の経験はあったが、これまでのものとは様子が違う。慌てて電子機器を運び出したその数分後、天井からおびただしい汚水が溢れ流れた。建設当初のままの錆びついた排水管が原因だった。

 なにせ築半世紀強の、いわばタワーマンションのプロトタイプ。311により壁面に亀裂が走るなど、経年劣化は誰の目にも明らかである。東京都による検査でも、震度6強以上の地震による倒壊危険度は「あり」との診断が下っている。

 にもかかわらず、なのである。ここへ来て、商用フロアのテナント家賃は坪単価5万円を超えた。建設当初からの古参住民による、ベッドタウン限界集落化した団地群とは圧倒的に異なって、今なお若い世代が新たに入居してくる。ざっと調べた限り、床面積20坪に満たない2LDKで価格は4000万弱、近隣の築年数の浅い物件と比較してもお値打ち品とは称し難い。

 リスクは高い、けれどもブランド価値もそれなりに高い。となれば一見、最適化解は耐震補強をはじめとした抜本的なリノベーションを図ること、とも思われるが、そうは問屋が卸さない。所有関係があまりに入り組みすぎているがために、意見を集約させることすら難しいのが現実だという。

 しかし、ここにある面では、中野ブロードウェイ中野ブロードウェイたらしめている最大の要因が凝縮されている。すなわち、デベロッパーが建設資金をまかなうための苦肉の策としてすべてが分譲としてはじまったがために、その後に各人がその事情に沿った売買や貸借を繰り返して権利関係は四散、結果として統一性を持たせようがないことそれ自体を最大の武器とするカオスポットとしてのブランディングに成功したわけだが、反面ヴィジョンをシェアするためのシステムを欠いているがゆえにこそ、中野ブロードウェイの今後を果たしてどう導いていくのかという段においても、そもそもにおいてまとまりようがない。いつしかまとまっていないことが最大の売りとなったその場所は、たとえ汚水浸しになろうとも、「アンタッチャブル」な現状をだらだらと先延ばしすることしかできない。「そうなると、大火災と大地震、この二つ以外には解決の道はないのではないか」。

 

 もっとも、その帰趨は既に別なる「解決の道」へと落着してしまったかにも見える。

 先に触れた通り、テナント料は高騰している。その要因は、高級アンティーク・ウォッチ・ショップの大量出店である。彼らの新規参入は必ずしもこの地での売り上げを見込んでのものではない。「ここで商品を販売することは目的ではなく、商品を買い取ってそれを別ルートで転売することが狙いなんです。あくまでも買い取りのための窓口であって、それは決してブロードウェイのためにはならないですよ」。なぜなら、「このままはブロードウェイの集客力は間違いなく落ちていく、……時計屋が進出してきて、その分、普通の物販店が減っていく」から。

 その高い不動産コストを支払える体力があるのは、回収できる目途を持てるのは、既にブランド力を抱えている企業体に限られざるを得ない、その帰結はあたかもポスト・ヒルズのラグジュアリー・モールが金太郎飴にしかなりようがないのに限りなく似ている。

 それは奇しくもこの地がたどった軌跡の逆スパイラルを見るようでもある。建設当初においては、日本の経済成長を反映するような高級ブティックが店を並べるも、各地でのファッションビルの台頭によって瞬く間に埋没、かくして一旦ブランド力は地に落ちた。ところが結果として何が起きたか、相対的にリーズナブルになったその空き隅で、まんだらけが自己増殖をはじめた、そしてオタクの聖地となった。

 古い建物からこそイノベーションが起きる、なぜならば、新規ベンチャーが参入可能なコスパがその場所には保証されているから。かつて街並みの景観を維持することがなぜに必要かと問われて、かのジェイン・ジェイコブズは見事にそう喝破してみせた。ノスタルジーとはおよそ正反対のまだ見ぬものへの渇望が、逆説的に古いインフラを要求する。ゾンビが鮮やかに息を吹き返したこの地ほどに彼女の説の例証としてふさわしい場所はふたつとない。

 翻って、この指摘を読み替えれば、現状の中野ブロードウェイからはもはや何の新しいものも生まれない、生まれようがない。

 建物の耐用期限はおそらくはとうに過ぎている、さりとて取り壊すにはネーム・ヴァリューがあり過ぎる。巨大化し過ぎた恐竜は、ただ滅びのその時を待つより他に何もできない。

 

 なぜだかやけに印象に残るやりとりがある。

 それは「ブロードウェイ遭遇率ナンバーワン芸能人」、大槻ケンヂへのインタビューでのこと。筆者はひとつの疑問をぶつけてみる。「僕がかねがね気になっていたのは、筋肉少女帯、あるいは彼の別ユニット『特撮』などで、ブロードウェイをテーマにした曲があるのかどうかということだった」。

 そう振られて、虚を突かれたかのように、「ないですね」と彼は答えた。

 イメージを絶えずすり抜けて変わりゆく、だから定義できない、記述できない、たぶんオーケンのこの空白こそが中野ブロードウェイという現象を何より雄弁に物語る。

 ウェルメイドな計画性をあざ笑うように、自生的秩序がオーバーテイクしていく、あたかもフリードリヒ・ハイエクの手によるかのような盛衰記を本書はたどる。都市の都市たる所以がここにある。

 

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