Blue Regions

 

 森と信じていたものが、森ではなかったということに、今になって気づいた。

 写真撮影のためにヘリコプターで上空から見下ろすと、細い水の流れを表す青い線と線の間に、細かい緑や茶色くなった場所が確認できた。乗馬用の道の両脇には、ヨーロッパトウヒが並んでいるが、その並木は伐採地やたくさんの苗木で埋め尽くされた場所にぶつかって途切れていた。森の中のジョギング用の細い道の距離は、わずか数分走るだけの距離しかなく、これも、車道や住宅地、広場にぶつかって終わっている。狩猟に出ても、皆伐のために地面が掘り起こされており、どうしようもないありさまだ。……

 もしかして私たちは騙されていたのではないか。ピサヴァーラの森を見て、まず私たちが感じたことだ。そして、ひどく驚いた。仕事柄、疑問を抱いたり、質問したりすることが当たり前である高等教育を受けた40代の私たちが、なぜ今まで自分たちの身近にある自然について疑問を抱くことをしなかったのか、と。

 同時に心配にもなった。私たちの子どもたちが、自分たちを取り巻く環境について理解するようになるには、中年と呼ばれる年代になるまで待たなければならないのだろうか、そして、彼らの時代になる頃には森はますます減ってしまうのではないか。それとも、森に対する考え方や見方が大きく変わり、森は単に原料を生み出すだけの場所ではないと、今よりもずっと深く理解されるようになるだろうか。

 

 森と湖とヤリ・リトマネンの国。

 言わずと知れたフィンランドのキャッチコピーである。

 そして一見、それを強力に裏づけるような統計もある。「フィンランドは、国土面積対する森の割合がヨーロッパ内で最も高く、全世界でも11番目に森の割合が高い。もし、フィンランドの森を総人口で平等に分配すると、国民1人当たりの森の面積は約4ヘクタールとなり、サッカー場6面分に相当する」。

 しかし問題は森と呼ばれる何かの、その中身である。「1950年にはまだ、フィンランドの総森林面積のうち4分の1は伐採されていない原生林だったが、その50年後には、原生林は5%を残すのみになっていた」。

 新たな植樹を施して適切な生育環境を整えてやればいい、とのリニューアル・コンセプトも一理ないことはない、しかし実践は絵に描いた餅と運ばない。

 そうして出来上がる森は、素人目にすらまず姿からして違う。「フィンランド南部の経済林では、枯れ朽ちた樹木の量は1ヘクタール当たり平均3.8立方メートル。フィンランド北部の経済林では、その量は8立方メートルと言われている。一方、フィンランド南部の最も状態のよい自然な森では、枯れ朽ちた木の量は1ヘクタール当たり平均50から120立方メートルある」。このギャップが何をもたらすか、「広々としていて、動き回るのが簡単で、それでいて何より変化に富んでいるのが自然な状態の森なのです。人工林こそ通り抜けができません。……隙間もなく空気も十分に行きわたらない森の底、つまり地面には、他の植物が育ちません」。

 それだけの密集を養殖できたらむしろまだマシな方で、皆伐のその後は植林を施されてすら惨憺たるありさまだった。「育成した幼木のうち成長可能な苗木は、わずか12%だけだったのだ」。つまり、森にすらなれない素寒貧の荒野が広がるのみだった。

 そんな場所ではもはや暮らし続けることができないのはムーミンだけではない。「フィンランドの森の3分の2は自然環境が危機的状況にあり、833種の絶滅危惧種はその危機的な森にある。さらに、そのうちの733種は森が経済活動に活用されたが故に生育環境が変わり、絶滅危惧種になってしまったのだ」。

 

 環境保全を謳うならば、と経済林の推進派を勢いづかせる仮説がないことはなかった。

 有機化学の王様が炭素であることは樹木においてもまた同じ、その基礎骨格は光合成を通じてもたらされる。だとすれば、成長がある程度飽和した木を入れ替えて新しくすることで、二酸化炭素の吸収効率はアップするのでは、延いては当然に気候変動対策として非常に有用なのでは、というのがその主張である。

 しかしこの説は既に否定されている。「樹木の生長が早いことは、森林全体の炭素貯蔵量が多くなることではない。若い樹木に貯蔵される炭素量は、老木が伐採されなければ貯蔵しているだろう炭素量よりも少ない」。老木にしても、枝や幹の生育が緩やかであるというだけの話で、その光合成の残留物は、「葉が地面に落ちる際に成長した分だけ死滅する。地面に落ちた葉が腐葉土になり森林土壌の炭素の均衡を保つ」。

 

 しかし、こうした不都合な真実をいくら並べたところで、別に人々が消費をやめられるわけではない。現にこのテキストだってパルプでできているし、電子書籍化にしても相応の環境負荷は避けられない。今さら森へと還すことも、森へと帰ることもできない。

 結局のところ、消費の失敗は消費で取り返すしかない。経済合理性の他に人々を説得するための言語などありやしない。

 例えばそれは、皆伐よりも択伐の方が儲かりますよ、という仕方で。ある経済学者の計算によれば、「再生を要する森林の収益性は、同年代樹齢の経済林と比べて15~20%改善する」という。これはひとつには、丸太用木材とパルプの価格差をもって説明される。また別の試算によれば、森で収穫できるビルベリーのコスト・パフォーマンスが極めて優秀なために、「皆伐時期を迎える同年代構造のヨーロッパアカマツの木立の伐採は延期する方がいい」。この取れ高にしても、経済林よりも恒続林のほうがはるかに期待できる。もちろんツーリズム資源としても将来性が望める。「フィンランド40の国立公園は、2億ユーロ超の成長ビジネスで……国立公園、トレッキングサービス、自然センターへの投資は、関連企業に投資した金額の10倍の見返りが期待できる」。

 はあ、と引用できそうな箇所を読み返しながらため息をつく、人里離れて、森、行きてえ。

 スオミもまた、同じように思い、そして愕然と悲嘆に暮れる、そんな森などもうないのだ、と。

 

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