白い巨塔

 

 ゴールデンウィークのただ中にあったその日、一時付き添いを離れていた家族が、急変の知らせで病院に呼び出されて駆けつけたとき、ベッドに横たわっていた男性は、すでに蘇生のための心臓マッサージを受けているところだった。

 20145月初旬、群馬県前橋にある群馬大学医学部付属病院(以下、群馬大学病院)のICU(集中治療室)で、入院患者の男性が息を引き取った。……

 死因は、「出血性ショック」。この年1月下旬に腹腔鏡を使った肝切除手術を受けてから、3カ月と1週間がたっていた。その間、男性は、胆汁の漏れや出血、感染による高熱といった手術後の重い合併症に苦しみ続けていた。家族にしてみれば、医師による術前の説明から、「傷が小さくて、体にやさしく、回復が早い手術」を受けたはずだった。一体なぜこのようになったのか。

「リスクの低い簡単な手術だったはずじゃないですか。それなのになぜ、こんなに早く亡くなることになったんですか」

「手術自体はうまくいきました。なぜこのようなことになってしまったのか、死亡の原因はわかりません」

 手術を執刀した医師からは、そういう内容の説明しか返ってこなかった。……

 この男性患者が迎えることになった、痛ましく、家族にとって理不尽としか思われない死は、後にこの病院の、そして医療界の暗部を白日の下にさらすきっかけとなる。

 

 このとき男性が受けていた術式は、実は現状、保険適用を認められていないものだった。なぜならば、安全性や実効性が担保されていないから。

 そうなれば、費用負担は本来、2通りのパターンしか考えられない。ひとつは、「患者が医療費の全額を自己負担する自費診療として行う方法」であり、もうひとつは、「臨床研究の一環として、病院側が全額を研究費などから支払い、患者に負担を求めない方法である」。

 しかし、このペイシェントの手術をめぐっては、いずれも採られていなかった。遺族は誰ひとりとしてその事実を告げられてすらいなかった。保存されていた領収書による限り、保険診療の範囲内のものとして一切の手続きは運ばれた。こうしたケースについては本来、病院の倫理委員会の諮問を事前に仰がねばならないのだが、そのプロセスも踏まれてはいなかった。

 こうした事態が何を意味しているか。それは単に診療報酬をめぐる不正に留まらない。他の患者に対しても、本当のところはいかなるオペが行われていたのかを確かめる術すらないことを示唆する。後の病院の公表によれば、肝臓の腹腔鏡手術は全92例、死亡は8例とされてはいるが、このデータすらも信じていいものか、分かったものではない。

 

 ダイジョーブ博士に言わせれば、「医学ノ進歩、発展ノタメニハ犠牲ガツキモノデース」。

 医学の世界で「ラーニングカーブ」と呼ばれる概念がある。経験を積むに従って、死亡率が右肩下がりの曲線を描いていくことを指すという。外科手術に限らず、およそすべてのものごとの習熟において、同様の現象はおそらくは確認される。

 もっともこれはあくまで、きちんとしたトライ・アンド・エラーのフィードバックがあってのこと。反省の段階を経なければ、狂気とはすなわち、同じプロセスを踏みながら、ただし別の帰結を望むこと、その格言を地で行く羽目となる。

 そしてこの通りの惨劇が、おそらくは群馬大学病院において繰り広げられた。関係者が反発することには、「群大病院は地域医療の『最後の砦』。手術死の続発は、難しい症例を多く見ているからこそ起こった問題でもある。体制が不十分なのに手術するなと言われれば止めるのは簡単ですが、その後、誰が重症例を引き受けるんですか」。しかし実際のところは、カルテの記載も杜撰ならば、本人や親族に向けたブリーフィングも不十分、プランニングも未成熟、たとえ致命的な失敗があったところで、学会や医局内でその事後的検証が行われることもない。この状況では、彼らが言う「難しい症例」が本当に「難しい」ものであったのかすらも確かめられなければ、その術式選択の可否を吟味することすらもできない。

 対して他の機関に属する医師は証言する。

「日本は、医師の裁量権が大きいんです。医者が、『これちょっとやってみようかな』『よさそうな論文が出ていたな』ということがあると、すぐ患者で試せるんですよ。……日本は、21世紀の臨床医学で標準的に行われているような安全性評価や有効性評価ではなくて、目の前の患者で試してしまうんです。……医者の裁量だけで目の前の患者に新しい治療を試せるというのは、世界的にも奇異なことなんですよ」。

 本書が告発するのは、マッド・サイエンティストの暴走ですらない、サイエンティストですらあれないすべて白衣の権威主義者による無能の発露でしかなかった。

 アリストテレスは、ガレノスは、聖書はこうおっしゃっている、でも観察や実験をしてみたら嘘ばっかりじゃん、権威から理性へ、そうして近代の扉は開いた。この近代の段階にすら入ることのできなかった、何もかもが惨めで醜く浅はかな、奈落としての日本しぐさの典型がここにある。

 日本人が日本人であるがゆえに日本人によって殺される。これをもって因果応報という。

 

 その中で、はたと著しい違和感に苛まれる記述に出会う。

「手術が思った以上に楽しくて、外科医の道を選びました」。

 キラキラとした目でそう語る若手医師に筆者は困惑せずにいられない。「この発言に全く悪意がないのは間違いない。/……職業人として、腕を磨きたいと思うのは自然なことだ。しかし、目先の手術における手技の上達が医師の最終的な到達点なのではなく、それによって患者が回復するということが、最大の目標でなければならないはずである」。

 バカバカしい、と筆者への軽蔑の念すら湧き上がらずにはいない。患者ファースト、クライアント・ファーストなどと宣う輩などすべて五流、社会的使命などと言わされているに過ぎぬ者どもからは、経済インセンティヴのみをその動機とするものと同様、ChatGPT未満の退屈なコピペ仕事以上の何かなど生涯にわたり望みえない。

 中高生に6年もの長きに渡って叩き込んだところで、所詮やらされているだけ、やっているふりだけの英語が一向に身につきやしないのと同じこと。他国の言語を学ぶために必要なのは、話したくてたまらないネイティヴの誰かと出会うことであり、その原典を知らずにはいられないようなドラマや音楽やテキストと出会うことであり、そうした能動的な動機づけから人ははじめて何かをインストールする。

 己が知的好奇心に動かされる者だけが、必然の合理性とたまさかのセレンディピティによって、ありあわせのブリコラージュから次なる科学の一手を繰り出す。

 おとなは自分のためにやる。子どもは他人のためにやる。

 それでいい、ホモ・ルーデンスからのおこぼれが結果的には他人を救う。ホモ・ルーデンスだけがこの絶望の奈落から、自分を、他人を解放する。

 

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