わたしの見ている世界が全て

 

 生まれ育った大阪を離れて東京に来たばかりの頃の話である。ちょっとした調べ物で都立図書館に初めて行くことになって、地下鉄広尾駅の改札を出ると地図を頼りに歩きはじめた。ご存じの方も多いと思うけれど、都立図書館は有栖川宮記念公園の中ほどにある。公園といっても、そのへんの街角にあるような可愛い代物ではない。67560平米、東京ドーム1.4個分の広さを持つ巨大な空間だ。しかも、園内には丘があり林があり川が流れて池がある。人工的な小山である。……

 皇族の家が大きいのはわかるけど、いくらなんでも広すぎるのではないか。東京という人口密集年のど真ん中に、なんでまたこんなにも広大で自然の豊かな公園があるのだ? と東京に来たばかりの僕は思ったわけだ。……

 それから数年後、……今度は日比谷公園にある都立図書館〔現在の千代田区立図書文化館〕へと足を運んだ。……日比谷公園有栖川宮記念公園のような土地の高低はないから歩きやすかったけれど、こちらも広い。とんでもなく広い。巨大な公園の中に規模の大きな図書館があり、公会堂がありテニスコートなどもある。……

 そう考えると東京の、地図上では巨大な穴のように見える公園も、何か古い時代の名残なのではないか。

 

 明治のお偉いさんは考えた。皇居の程近くだというのに、この場所を空き地のままにしておくのはいかがなものか、と。かつて練兵場を構えていたその荒れ野原は、その当時から物盗りなどが多発する物騒な場所として知られてはいたが、そこに公園を構えることで心機一転を図ろうではないか、と。

 これが日比谷公園のはじまりだという。もっとも折から資金難の東京府にあって、公園インフラ整備をめぐる政策的に優先順位はさして高いものではない。辰野金吾にひとまず設計が委ねられこそしたものの、さしもの建築界の巨人をしても何のノウハウがあるでもない。そうした要素が重なって、かくして計画は15年もの長きに渡り、棚ざらしを余儀なくされた。

 再始動したプロジェクトを事実上取り仕切った、林学博士本多静六には大志があった。

「公園の花卉が盗まれない位に国民の公徳が進まねば日本は亡国だ。公園は一面その公徳心を養う教育機関の一つになるのだ」。

 果たしてそこは例えば西洋音楽と市民が触れ合う「教育機関」となった。半ば軍人の専有物と化していた西洋伝来の音楽が、あの野外音楽堂から漏れ聞こえてくるようになると、一気呵成に人口に膾炙していく。「はじめは軍のために受容されていたものが、やがて娯楽になり教育と結びついて一般化したのである」。

 啓蒙の場としての公園は、時に大衆の暴力装置へと反転する。日比谷焼き討ち事件である。

 折しもそれは日露戦争終戦に際しての講和条約を締結している最中の出来事、「戦争中の国民が『そんなに簡単に戦争を終わらせるな!』という市民運動を始めたのである。反・反戦運動だ。……報道では連戦連勝の大勝利と言われ、それを信じてきたのに、実際には大国ロシアの一部に傷をつけた程度でしかなかった。当たり前の話だけれど、戦争というのは市民の生活を圧迫する。国民がそれに耐えてきたのも、大勝利という報道を信じてきたからだった」。

 日本すごい大本営発表への熱狂の傍らで日々やつれゆくばかりの哀れな国民どもが暴動に打って出たのは、もはや必然だった。そして大人数が参集可能なオープンエアの公園がその火薬庫として選ばれたのも、やはり必然だった。

 

 広大な練兵場の跡地が活用されたという点では、明治神宮もまた、日比谷と同じだった。

 亡き天皇夫妻を祀るに、「明治神宮には日本の神社の伝統にふさわしく、世間の騒々しさが感じられないような荘厳な森=杜が作られることになった。神社の『社』と『杜』はもともと同義語なのである」。

 そのための樹木として利用されたし、と全国から10万本近くにもなる寄付が殺到した。そればかりか、「さらに、建設、造営にあたっては全国青年団員が勤労奉仕、つまりボランティアで働いたのである。その数なんとのべ10万人。……それだけ日本国民が明治神宮に期待しており、建設そのものが国民のイベントになっていたのだ」。

「人の手を加えなくても自然に育ち森を維持できること、煙害に強いこと、神社にふさわしい樹形、林相を持つこと、などの観点からカシ、シイ、クスなどの常緑広葉樹をメインに選んだ。とはいえ、現地には御料地時代からの樹木もあるわけで、これを活かさない手はない。以前から立派に育っていたのはアカマツクロマツだったので、それよりもやや低い層としてヒノキ、サワラ、スギ、モミなどの針葉樹を交え、さらに低い層に将来の主力となる予定のカシ、シイ、クスなどの常緑広葉樹が配置され、最も低いところに常緑小喬木、灌木が植えられた。……

 百年単位で設計された森なのである」。

 

 普通に考えれば、街の景観デザインに統一性を持たせるべく、この内苑と同様のコンセプトが民間出資の外苑においても貫かれていたと見るべきだろう。

 ところがこの国家百年の計が託されたに違いない外苑の並木約3000本が、東京五輪のそのあとで、今や伐採の対象としてロックオンされた。

 その跡地がたどるだろう未来は、三井のすずちゃんがナビゲートしてくれている。

 再開発の支持者に言わせれば、これが公園なのだという。

 梨本宮家に隣接したところからその名がついたという公園は、時が流れて整備費用とのトレード・オフを名目にナイキへとネーミング・ライツが明け渡され、さらにMIYASHITA PARKへのリニューアルが図られた。

 人々の集いの場としての機能は、稼げる公園化をもって放棄された。かつてそこに根城を張ったホームレスは、ノー・トレランスでこの地を追われた。たかがお砂場遊びをするために1500円がむしり取られる、こうして子どもたちさえも公園から追われた。

 コンクリートに薄っぺらな土をかぶせただけの場所に根を張ることができないのは、植物もまた同じだった。春だというのに、ソヨゴの枝の先端は枯れ朽ちている。素人丸出しのデザイン・コンセプトでは緑のカーテンが延びていただろうに、実際に出来上がったものといえば、ただただみすぼらしいばかり。誰が踏み荒らしたでもない芝生もひたすらに寒々しい。

 路面のゲートでは、ラグジュアリーのコングロマリットLVMHとケリングが誇る両巨頭による熱烈おもてなしを受ける。わけてもヴィトンでは、つい最近まで草間彌生のドテカボチャが鎮座していた。もっとも、その馬鹿の一つ覚えの強迫性において、たかがピンクのおばさんの出涸らしコピペのプロダクション仕事程度が、時価総額数十兆円のウンコ色モノグラム商法、緑と赤のロゴドン商法の足元にも及ぶはずもない、これをどうして公開処刑と呼ばずにいられるだろうか。

 本多静六の慧眼そのまま、かつて公園が「教育機関」を担った時代があった。例えばパリのチュイルリーが凱旋門にも勝るフランス近代革命の象徴となったのと同様に、本邦においてもかつて領主や軍隊の私有、専有であったその場所が公に向けて分かたれた。この移行は単に土地の開放のみを意味しない、それは何より知の開放だった。

「近代化が進むに連れて、この練兵場の居場所がなくなってゆくのは非常に面白い現象ではないか。明治時代を通して、練兵場は日比谷から青山、青山から代々木へと移転する。そして結果的にではあるけれど、練兵場のあった場所はすべて平和な公園になっているのだ……

 本多静六は国民のモラル向上を視野に入れていたし、福羽逸人〔主な仕事に新宿御苑〕は皇室のために仕事をすることで、その結果が国民にフィードバックされることを考えていた。それが彼らにとっての近代化だったとすれば、僕はこの国が近代化してよかったと心から思う」。

 東京の地にて、その「公園」がもはや「公園」であることをやめる。

 言い換えれば、彼らは「近代化」をやめる。

 

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