バベルの図書館

 

 ここでアーカイブというのは、後から振り返るために知を蓄積して利用できるようにする仕組みないしはそうしてできた利用可能な知の蓄積のことです。……

 アーカイブは歴史的に構築されているものです。そして図書館や文書館、博物館などの公共機関はアーカイブのための装置として存在します。本講ではそのなかでも図書館を中心に述べますが、他のアーカイブ機関にも通用する議論をするつもりです。

 私がこうしたことを語る意図としては、日本で図書館は本を無料で借りられる施設であったり居場所として使われたいたりしても、それ以上のものではなく、社会にとって不要不急の存在とされたのはなぜかということがあります。……アーカイブというのは知を生かすための仕組みであり、どんな社会においても必要な仕組みです。その意味では日本で図書館の役割が受け入れられておらず、司書という職業が確立されていないのは、知を蓄積して生かすという考え方が十分に理解されていないからではないかと思わざるを得ません。……

 アーカイブの思想は古代ギリシアから始まっています。……archiveに最初のものという意味と権力という意味が含まれているということは、最初のものがすなわち権力の源泉であり、権力の所在を示すために残された証拠であることを意味します。アーカイブはそれしかないという唯一性のある資料の領域であり、その意味での真正性が効いてきます。真正な証拠が備わっているということは、ある行為に根拠と正当性があることを誇示し、同時にその行為の裏側の責任を示すことです。

 

 序盤早々にして本書の核心となるような議論が提示される。

 明治維新、文明開化に伴って、本邦でいったい何が起きたのか。

「法律も、行政の制度も、会社という仕組みも、学校や大学や医療や農業もすべてが欧米の知を基にするものに切り替わっ」た。言い換えれば、「知は欧米のものを輸入してそれを日本の国内向けに翻訳すればよいという発想」がデフォルトとして定着した。

 このコンセプトが図書館に反映されるとどうなるか。

「図書館(あるいはその前駆的形態の文庫)は書物の形をとった知を蓄積したものであり、知の豊かな伝統を活かすためにあるものです。しかし知を輸入すればよいとなると、図書館に行かなくとも必要なものはその流通ルートに依存すればよいということになります」。

 ハウ・トゥを記した既存のテキストをそのままコピー・アンド・ペーストしさえすればいい、だとすれば、何ならその知を個人所有することが他者に対しての優位を確保するための材料になる。いっそテキストがオープンに公開されるよりもクローズドな秘伝にしてしまった方が、ある種の人々にとっては都合がいい。その極致はまさに、公文書というアーカイブが国民の共有財産であることすら理解しようとしない官僚機構にあらわれる。日本社会にあっては、アーカイブをベースに知を発展させていく、という考え方が入り込む余地はもとよりない。

 こんな話に漠然と呼び覚まされる風景がある。それは小学校の教室、私たち生徒に与えられた教科書とは違う、何やら分厚いテキストを担任がめくりながら授業を進めていく。教壇の上と下、この格差はすなわちテキストの違いによって画然と担保されていた。その権力の源泉は、もちろん生徒たちに向けて配られることはなかった。日本という名のトンチキカルトへと誘うその原風景は、前近代のキリスト教社会において聖職者の特権がバイブルに由来したその図式に限りなく似る。

 

 なぜに日本においては知がことごとく御託宣として機能してしまうのか、本書のテーマに則って言い換えれば、なぜにアーカイブの思想が培われてこなかったのか。

 筆者がその回答の足がかりとして求めたのは、古代ギリシア以来の「パイデイアpaideia」の伝統だった。wikipediaencyclopediaといった語彙に含まれるpediaは、ともにこの「パイデイア」に由来する。その意味するところは、「ポリス市民としての善き生き方を追求し、成人になっても生涯の終わりまで人間としての固有の善き人生を全うするための知」である。それらはやがてリベラルアーツ、一般教養というかたちで引き継がれていった。個別各論の具体的な実践知を問う前に、まずは自由七科で試されるような基本的な頭の使い方を学ぶ、テキストの読み方を学ぶ、それがすなわち「パイデイア」という語によって想定された事態であった。

「パイデイア」さえ身につけていれば、あとは各々の項目に合わせた専門知識を引っ張り出してくることで、いかようにも新たな領域を切り開くことができる。それはいわばアリストテレスの形相と質料の関係に限りなく似る。その質料をもたらす場が、すなわち図書館であり、アーカイブであった。蔵書が次なる蔵書を生む、アーカイブとはすなわち「パイデイア」の自己増殖装置の別称だった。

 ところが日本には、そもそも「パイデイア」がなかった。舶来の概念をそのままに翻訳しさえすればうよかった。あるいは反動主義的に、日本列島において先人が説いた何かしらの境地を唯々諾々と権威としてそのまま受け入れてしまえばよかった。芸術だ、伝統だ、と謳う世界において尊ばれるのはあくまで先人の域に近づくことであって、彼らを克服することではない。

「欧米では、知は外部化された記憶としての書物やそのコレクションである図書館から得ることができるととらえ、人の能力とはこれらの知を使いこなすために他人の話を聞いて自分の考えを話す力や読み、考え、書く力、つまりリテラシーを駆使する力ということになります。その際に、外部的な知として存在する書物や図書館蔵書を使いこなすことの重要性が強調されます。他方、東アジアの実質陶冶的な知識観に立てば、書物や図書館は知識を与えてくれるものですが多すぎて使うのに不便なので、国の検定などの枠組みのなかで知識の範囲を定めるものとして教科書が重要となります」。

 

 しばしば「パイデイア」に基づく批判精神は、既存の権威を無効化する。

 しかし、そんな近代啓蒙思想の系譜など誰も求めてはいなかった。

 今日なお、その伝統は脈々と息づく。その典型はChatGPTなどのAI技術をめぐって観察される。日本において専らその利用が叫ばれるのは、もはや人知をもってはかなわぬ叡智を恵んで下さる神がかりとしての機能を期してのことである。ブラックボックスの中でアーカイブがハチャメチャに紐づけられた末、トンデモな結論を導き出してこようとは、彼らはまさか夢にも思わない。アーカイブの豊饒なストックを「パイデイア」に基づいてブリコラージュすることで、未知のフロンティアを、マーケットを切り開く、そんな人間の人間たる所以を彼らは想像しようとさえしない。

 おそらく何かしらのQ&Aの導出に際して、AIが準拠するのはネット上で組織化された集合知、言い換えればバカのバカによるバカのための人気投票、ネット上のコピペの拡散によってあっさりと常識へと更新されてしまった真っ赤なフェイクがしばしば追認されていく。ここでもまた、対抗手段を与えるのはアーカイブの他にない。一次ソースをひたすらに裏取りする、そして吟味検討を重ねる、このうんざりするほどに映えない作業は、「パイデイア」なき輩には到底耐えられるものではない。それ以前に、いかにAIが磨かれようとも、「パイデイア」を欠いた輩には、まともな問いを立てることすらままならない。

 考えたくない、考えるための術も知らない、そんな安直な彼らにとってアーカイブとはカンニング・ペーパー以上の何かである必要はない。そしてその座はAIへと明け渡された。

 退廃を来たした江戸の後の文明開化の端緒ならば、もしくは戦後復興の発展途上期ならば、あるいはそれでよかったのかもしれない。先進国のコピペを重ねてさえいれば、低い賃金などのアドヴァンテージが勝手にその水準までの成長を後押ししてくれたから。幸福のレシピはすべてテキストが授けてくださる、そう妄信していればそれでよかった。

 しかし、その先進国の地位にうっかり辿り着いてしまったとき、そこから先の成長のヴィジョンをまるで描くことができなくなった。「パイデイア」に基づいてアーカイブをためつすがめつこねくり回す、その知的営為の中にこそ成長の芽が宿っているというのに、他人を買い叩く他にいかなるスキルも持たない彼らはなおもただひたすらに神託を求めて徘徊し、そして失われた30年のゼロ成長社会を実現し、今日ついに瀕死の体に立つ羽目に陥る。

「パイデイア」なき哀れな権威主義者には、焼け野原しか作れない。

 

 新しい戦後の立て直しは、「パイデイア」からはじめればいい、図書館からはじめればいい、300年遅れの近代からはじめればいい。

 

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