「国王ハ死ス、国民ハ決シテ死セズ」

 

 東京の西部に位置する五日市という町に、「開かずの蔵」と呼ばれる朽ちかけた土蔵があった。1968年、当時まだ20代だった私は、その薄暗い土蔵の中でたまたま一つの文書を手にした。それが、この地域の自由民権運動から生み出された「五日市憲法草案」である。

 起草者の千葉卓三郎とはいったい誰なのか。なぜこの地域で、このような憲法草案が誕生したのか。その歴史の水脈をさぐる、私の探索の旅が始まった。それは予想をはるかに超える長大かつ深い大河となったが、同時に私自身の人生の轍とも重なった。気がつくと半世紀もの歳月が流れていた。……

 民衆が主人公の歴史は、時間とともに忘れ去られ、埋もれるのは必然である。だが本書では、その歴史の水脈を、非力ながら私なりに掘り起こしてみようと思う。五日市憲法というものを通して、現代にも通じる自由民権の歴史の水脈を、一人でも多くの人に感じていただければと願うばかりである。

 

「開かずの蔵」におけるこの発見には、ある種の必然が横たわっていた。

 同時代にこの地に根を張ったとある自由党員の手記によれば、その所有者は「豪農にて、頗る篤学の人なり、凡そ東京にて出版する新刊の書籍は、悉く之を購求して書庫に蔵し居たり」。

 この人物、単に私有して知に耽るに留まらなかった。周囲の者の「好むに任せて、之を読むの絶対自由を」与えていた。

 それはまだ明治期のこと、訳語も満足に定まらない、辞典すらもどこまであてにしてよいものやら。しかし、そんな時代においてすらも、彼らは明日の日本を信じて、弾圧にもめげず、共に集い、未来のヴィジョンを憲法草案に託した。すり合わせもなく各人が臆見を披露して自己満足に終始するのではない、そこには書物という確たるプラットフォームが横たわっていた。

 はじめに書物があった。その山から「五日市憲法草案」が見出されるのはもはや必定だった。

 

 その中心に千葉卓三郎なる人物があった。

 掘り下げてみればみるほどに、そのキャリアの劇的なることが白日にさらされていく。

 生地仙台では大槻磐渓に師事するも戊辰戦争で無惨に散らされ上京、お茶の水に今も残るニコライ堂で伝道師として活躍、その後もさまざまに拠点を移し、英語などに広く触れて、そうして自由民権運動に沸き返る五日市へと辿り着く。

 彼はやがて元老院による『法律格言』に向こうを張って書き記す。

「若し人民の権利と人君の権利と集合する時は、人民の権利を勝れりとす」。

 元のテキストは、国王と臣民の権利が競合する際には、国王を優先させよ、と命じる。その点を千葉は鮮やかに換骨奪胎させてみせた。近代革命の精神を瞬く間に捉えてみせた。

 この域への到達は、単に彼ひとりの霊感に依拠するものではない。自由民権運動があり、書物があって、はじめて達成された。

 国民の責任とは、実にその座を囲むことにある。

 

 同じ頃、伊藤博文は吐き捨てた。

「青年書生が漸く洋書のかじり読みにてひねり出したる書上の理屈をもって、万古不易の定論なりとし、これを実地に施行せんとするが如き浅薄皮相の考にて、却て自国の国体歴史は度外に置き、無人の境に新政府を創立すると一般の陋見に過ぎざるべし」。

 かくして伊藤とその周辺は密室で新憲法をしたためた。天皇なる「自国の国体歴史」をでっち上げて、軽い神輿と担ぎ出したのとまるで同じ仕方で。

 伊藤と千葉を並べたときに、後者に対してどうにも胸の高鳴りを抑え切れないのには相応の理由がある。千葉には、彼を磨き抜いた民衆の、共同体の存在があった。伊藤のキャリアにそれを認めることはできない。

 由らしむべき、知らしむべからず。

 こんな浅はかな権威主義が民を利する日など決して訪れないことを、裏切られて裏切られてそれでもなお阿諛追従して、当の民はいつになったら気づくのだろう。

 

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