王様のレストラン

 

 私が考えはじめたのは、歴史の重要な瞬間に料理を作っていた人たちは歴史について何が言えるだろうということだ。世界の運命が動いたとき、鍋の中では何が煮立っていたのか? 米が焦げつかないように、牛乳が沸騰しないように、カツレツが焦げないように、あるいはジャガイモを茹でる水が吹きこぼれないように見張っていた料理人たちは横目で何に気づいただろう?

 たちまち次の問いが浮かんだ。サダム・フセインは何万人ものクルド人をガスで殺すよう命じた後、何を食べたのか? その後、腹は痛くならなかったのか? 200万近いクメール人が飢え死にしかけていたとき、ポル・ポトは何を食べていたのか? フィデル・カストロは世界を核戦争の瀬戸際に立たせたとき、何を食べていたのか? そのうちだれが辛いものを好み、だれが味の薄いものを好んだのか? だれが大食漢で、だれがフォークを皿でつつくだけだったのか? だれが血のしたたるビーフステーキを好み、だれがよく焼いたのを好んだのだろう?

 そして結局のところ、彼らの食べたものは政治に影響を与えたのか? もしかしたら料理人のだれかが食べ物に付随する魔法を使って、自国の歴史に何らかの役割を果たしたのでは?

 どうしようもなかった。問いがあまりに多くなったものだから、本物の独裁者の料理人を見つけるしかなくなった。

 そんなわけで旅に出た。

 

 独裁者のディナーと耳にして、世の中はついつい考えてしまう。

 何といっても独裁者である、金と権力に物を言わせて贅の限りを尽くして、満漢全席か、宮中晩餐会かと見紛うような奢侈を煮固めたような酒池肉林を毎夜毎夜味わっているのではなかろうか、と。

 しかし、鼻白むネタバレを予めしてしまえば、必ずしもそんなことはない、そんなわけはない。

 一方ではもちろん、ソ連からの援助が途絶え極貧にあえぐ共産主義キューバで、少なからぬ国民の糧が3日に1度の砂糖水であった時代においてすらも、フィデル・カストロが決して同じ食事を摂っていたわけではないことは事実なのだろう。ク・デタで政権を乗っ取った、時のウガンダ大統領イディ・アミンが、外交ルートの下準備も何もない思いつきのフライトでイギリスに飛び武器を買いつけたその金で、いったい何人の国民の飢えを救うことができただろうか、ということは十二分に考慮に値する問い立てではある。

 とはいえ結局のところ、独裁者の食卓というのはそうインスタ映えするものではない。今さら庶民派だ、共産主義思想の実践だ、と装う必要もない。たぶん、事実としてそうなのだ。

 例えばあのサダム・フセインのフェイヴァリットは「ティクリート風魚のスープ」だった。料理人が伝えるファースト・レディ直伝のレシピといえば、「魚は2センチ幅に切って小麦粉をまぶしておく。鍋底に玉ねぎと油を少し入れる。玉ねぎを炒めて、その上に魚を並べる。パセリを振りかける。その上にトマトを並べる。その上に干しアンズを並べる。その上にまたトマト。また魚。アーモンド。また魚。

 重ねる順番はどうでもいいが、重要なのは、いちばん下に必ず玉ねぎを敷くことだ。そしてスープにはニンニク、パセリ、アーモンド、アンズ、トマトを入れること。レーズンを少し加えてもいい。

 最初は魚と野菜から水分が出てくるまで待つ。シューッという音がしたら、水気がもうないということなので、ひたひたになるくらいまで熱湯を注ぐ。その後、さらに15分か20分煮込む。最後にほんの少しターメリックを加えてもいい」(太字はすべてテキストに準拠)。

 その料理人が、「ブラザー・マットレス」からの寵愛を勝ち得たきっかけも、「甘酸っぱいスープ」だった。「材料はササゲ、サツマイモ、カボチャ、ズッキーニ、メロン、パイナップル、ニンニク、肉――鶏肉か、牛肉――そして卵。2つか3つ。トマトを入れてもいいし、レンコンでもいいですよ。まず鶏肉を茹で、そこに砂糖と塩と野菜を全部加えます。どのくらい煮込めばいいのかわからないわ、だってジャングルに時計がなかったし、すべて勘でやっていたんですから。たぶん30分くらいかしら。最後にタマリンドの根を加えます」。

 アルバニアのエンヴェル・ホッジャの食卓は、さらに簡素なものだった。彼に許された1日の摂取熱量はわずかに1200キロカロリー、糖尿病を患っていた彼のために当時の医学が導き出した最高の療法が粗食だったためだった。その枠でなおかつ各種栄養素を補わなければならない、チームが日々献立を組むのに心を砕いていたとはいえ、そのメニューは寒々としたものだった。

「ホッジャは朝食に、かつてのように、チーズ一切れにジャムを添えて食べた。

 昼食に食べたのは野菜スープだが、肉のブイヨンを使わないもの――それは食べることを禁じられていた――それから仔牛肉か仔羊肉か魚の小さな切り身。

 デザートは果物だったが、あまり甘くないもの、酸っぱいリンゴかプラム。

 夕食はヨーグルト。

 ホッジャはほとんどパンを食べなかった。カロリーばかりで栄養価がないと医者たちに言われて、完全にやめたんだ」。

 新年のお祝いに伝統菓子「シェチェ・パーレ」を振る舞ったこともある。「もちろん砂糖の代わりにキシリトールを使わなくてはならない。/……ホッジャ用にはできなかったが、ホイップクリームと果物を添えると絶品だ」。

 そのいずれもが、見ての通りの家庭の味である。お抱えの彼ら作り手たちも、その国最高の名門レストランの腕利きから選りすぐられてきたわけでもない。そのほとんどが、さしたる専門的な料理教育を授かってきたわけでもない。OJTと言えるほどのものすらなく、ひょんなことから、としか言いようのないところから転がり込んできたような人々である。

 

 出来事には常に、多面的、多層的な顔がある。

 ひたすら国民から富を貪い焼け肥る独裁者たちも、こと配下の料理人に対しては、快く分配に勤しんだ。「年に一度――君はうらやましがるだろうね――サダムは我々ひとりひとりに新車を買ってくれた」し、「アミンの統治は私にとって3倍の給料とピカピカのメルセデスを意味していた」。仕えた料理人は今なお「フィデルはいろんなことで批判されるが、彼のしたことに欺瞞はなかった」ことを信じてやまない。

 それはあるいはDV夫に寄り添う妻にかけられたグルーミングの呪文と同等の症例でしかないのかもしれない。しかしいずれにせよ、概して人が仕えるには――それも長きに渡って――仕えるなりの理由がある。利権の後光に人間は勝てない。

 

 ところが、本書に登場する他の人物と比べても、少しばかり位相の違う証言を行う料理人がある。彼女が献身した相手とは、カンボジアの独裁者、ポル・ポトだった。

 厨房という政治劇の舞台裏からつぶさに歴史的場面を目撃していたはずの彼女は、ましてやその国が「料理人の世界が政治の世界とこれほど密接に絡み合った国は、世界でも他に類がない」にもかかわらず、ところが何も見ていなかった。世に語られるクメール・ルージュによる大虐殺にも別のアスペクトがあって、といった次元ではない。彼女はしばしば「質問が聞こえないふりをする」。たぶん「ふり」なのではない、彼女の住まうポスト・トゥルースではそんなことなど起きていないのだ。クメール・ルージュは「飢えを政治の道具として使っていた」、私たちが教科書等で知るその世界線は彼女の認識の外側にあった。そして彼女は断言した。

ポル・ポトは殺人犯ではなかった。

 ポル・ポトは夢想家だった。

 彼は公正な世界を夢見ていました。だれひとり飢えたりしない世界を。だれひとり威張ったりしない、だれひとり自分は他人より優れていると思ったりしない世界を。

 ポル・ポトは人々から食べ物を奪うなんてできなかったはずです。もしだれかがそんな命令を下したとしたら、それは間違っても彼じゃありません」。

 私がオーバーラップを禁じ得ない光景がある。オウム真理教の、あのサティアンにおけるダサいファッション、マズい飯。そしてその場にいる誰しもが、そんなことすら見えていなかった。麻原のケースと同様に、きっとポル・ポトの周辺では、誰しもがファクトの磁場の歪みにさらされていた。彼女はその代え難き証言者なのだ。誰しもが別の何かを見続けた、つまり彼らは、たとえ食卓を囲もうとも、誰ともつながっていなかった。

 彼らは孤独のグルメだった。

 

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