レストランの厨房で絶望し、フードトラックで発狂した

 

 私がこの本を書くきっかけになったのは、いかにも春を思わせる3月初旬のある爽やかな午後の、偶然の出会いでした。オープンしたてのベジタリアンレストランでランチをした帰り道、アッパーウェストサイドのアムステルダム通りにあるお肉屋さんの前を通り過ぎました。……

 私はお店に入り、細切れ肉を2ポンド[約900グラム]注文しました。別の従業員が裏で切り立てを作っている間、私は何気なく、「今の時代に肉屋としてやっていくこと」について店主に質問してみました。すると、店主の当意即妙の切り返しがあまりに面白く、洞察力鋭く、仕事に対する熱い思いがこちらにまで伝染したため、こう思ったのです。

 この街には、彼のような人があとどのくらいいるのだろう。それぞれの物語を持つ人々が――。

 そしたら、大勢いたのです。

 

「他にできることがないじゃない」。

 何気なく放たれたこのひとことが、本書の通奏低音を構成する。

 とあるパティシエールをその道に導いたのは、姉の死だった。そうして彼女に残されたのは、アメリカ生まれの遺児と、その後見人向けに紐づけられたグリーンカードだけ。母国チュニジアで積み重ねた株式ディーラーとしてのキャリアなど、ウォールストリートでは何の役にも立ちやしない。伝手を頼ってようやくありつけたのは、レストランの掃除婦。そのスタート地点からまさか一流店へのルートが延びていようとは、彼女にはまだ知る由もない。

 また、とある繁盛屋台の経営者は、祖国エジプトで獣医師として働いていた。もっともそんな免許など、海を渡ってしまえば何の役にも立たなかった。皿洗い、ウェイターを経てホットドッグ屋台を引くようになる。しかし当人にいわせれば、「お金が欲しいときは、自分の経歴なんてどうでもよくなるものです」。

 参入障壁が低い、ゆえに過当競争はデフォルト、食品産業を取り巻くこのブラック構造は、ザ・ビッグ・アップルにおいても例外ではなかった。

 ポーランド出身のブッチャーは、御年83にして「週5日、118時間働いているよ。今までと変わらずね。1日の始まりは8時半。午前じゃなくて午後」。ギリシャから来たダイナー経営者は「休みも週末もなくて114時間」、その彼が言うことには「今、大変な仕事でもやりたがるのはメキシコ人だけだよ。それが現実。他は1日か2日働いて終わり。皿洗いを雇ったら5分で『なんか違う』と言って辞めてく」。ニューオーリンズ伝統の超人気スイーツ店では「朝4時半にもなると、頭がクラクラしてきて、やっていることに集中しなきゃいけないのに、ぼーっとしてしまうので、手首のあちこちに小さな火傷の水ぶくれができ」るほど働いているというのに、「原材料と包装材で原価が5ドル50セント」の商品をたったの10ドルで売るというのだから「儲けもないけど借金もない」。

 単に長時間労働というに留まらない。さすがに誇張だと信じたいところだが、「ニューヨークで働いてるコックの半分はタダ働きです。/……給料を払ってくれる場合でも、大した額じゃありません。駆け出しのコックは、だいたい時給は9ドルです」、しかもサービス残業ベースで。のみならず精神的にも削られる。「彼ら[シェフ]はサメと同じですよ。血の匂いがしたら、たった一度でもヘマをしたら、その日は終わったも同然です。1日中、ねちねちを罵倒され続けますから。……ただただ『はい、シェフ』って言ってるんです。それが究極のルールだって叩き込まれるんですよ。料理をやりたかったら、言いなりになれって」。この見解を補強するように、別のシェフは自負とともに語る。「若いコックが週90時間でも喜んで働くのは、……学べて鍛えてもらって、始めた頃よりも成長させてくれて、自分をシェフに育てあげてくれると思うからです」。

 すべて奴隷は、自らを縛りつける鉄鎖の強さを誇ってやまない。

 

 ところがこのテキストは、何とも驚くべきことに、ブラック企業潜入リポートの類ではない。あくまで筆者自身のことばに従えば、「競争に追われ、先が予測できず、苛酷なことも多いけれど、総じてほぼ満足しているという彼らのその人生にスポットライトを当てています」。

 ここに典型的なフィルター・バイアスの発動を見ずにはいられない。繁盛店を訪ね歩く筆者の視界には、道半ばにして使い捨てられて燃え尽きていった人間も、夢破れて他の産業に流れざるを得なかった人間も入りようがないのだから。とはいえ、その死屍累々を辛うじて生き延びた暫定的な勝者たちですらも、このありさまなのである。

 世界中いずこも同じ、外食、中食に金を落とすとは、すべからく生き地獄を買い支えする試みに他ならない。

 

 現代においてフードポルノ競争を勝ち残るほぼ唯一の方法と言えば、報酬系に作用する糖と脂肪をドカ盛りにすること、そしてそれをSNSに取り上げさせること。短絡的な快楽を味わうためならば、その蓄積により健康を害したところでそれが何だというのだろう。卑しい豚どもからの承認欲求を満たすためだけにエサの写真は撮ってアップすれども口はつけない、そんな賢明極まるインスタグラマーを誰が糾弾することができるだろう。

 そんなナンセンスな競争の狭間で、密やかに咲く花がある。もっとも、イースト・リヴァーに浮かぶ創業約90年のこの老舗レストランがグルメガイドに掲載されることは決してない。

 その異色の料理を提供してくれるジャマイカ出身の女性は、1日ざっと47000食、年間にしておよそ1700万食を統括している。このちょっとしたチェーン店規模のレストラン、またの名を刑務所という。彼女が預かっているのは、12000人の受刑者に加えて職員8000人分の食事。

 そのキッチンでは、包丁1本の取り扱いにも慎重を期さねばならない。「ナイフが必要なときは、職員が記帳して箱から取り出し、記帳して箱に戻します。……包丁やナイフがその辺に置かれていることは絶対にないんです」。

 少なくともここライカーズ刑務所では、宗教やアレルギー等によるNGを別にすれば、収容者も職員も同じものを食べているという。「刑務所の食事は味のない水っぽい食べ物だと思っている人が多いと思います。1つの鍋に何でもぶっ込んでごった煮して、トレイにドーンと置いて終わり、粗悪な食事を粗悪な方法で出していると思っているでしょう。ここでやっているのはその真逆です。/……全員、心臓にいい食事を食べています。……収容者が揚げ物を食べることは一切ありません。それと、今は全粒穀物しか使っていません。/……1日を通して、おそらく一般の人よりもはるかに健康的な食事を摂っていると思います」。

 まともな食事を摂りたければ浮世を投げ出して刑務所へ行くしかない、ニューヨークという地獄の淵を覗き見る。

 

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