岸辺のアルバム

 

 いまや飛ぶ鳥を落とす勢いのPV数(ページビュー数=閲覧回数)を誇る「東洋経済オンライン」の編集長に就任したばかりの山田俊宏さんから、「へんな本、変わった本に関するコラムをオンラインに連載したいから何か書いてよ」という依頼が来たのが今からちょうど3年前のことだった。山田さんが地方勤務だったとき、古本とは縁もゆかりもない方面でたまたま知り合った私が、ヘンテコな本好きだという誤った(?)認識が頭の片隅に残っていたのだろう。古本好きのご他聞に漏れず、とっておきの面白本やら集書苦労話の類いはいくつかストックがあるものの、不特定多数の方の目に触れる形で、古本についてのエッセイを書くなど素人の私にはまったく初めて。震え上がりながらも、折角いただいた機会だからと随分力瘤を入れて文章を書いたものだ。

 

 かつて筆者は、「平均すると13冊のペースで本を買っていた。これは10年で1万冊のペースである」。本書出版時においてさる上場企業役員を担っているという筆者に、まさかこれほどの乱読をこなす暇があったとは思えない。稀覯書を含むこの爆買いを継続させられるほどの稼ぎがいくらあるにせよ、積読と呼ぶのもためらわれるほどの量である。投機対象と呼べるほどの成長が見込める市場でもない。書かれている内容どうこうという以前に、古本というモノそれ自体に魂を吸い取られたコレクターという仕方でしかこの行動は説明できまい。

 そんなフェティシズムの極みが凝縮されたのが、栗田信『醗酵人間』をめぐるくだりである。通常のブックレビューにおいては肝心要とされるべきあらすじそのものはどうでもいい。というのも、「設定からして、全然説得力がない。非常にいい加減な似非科学的解説を、自信がないせいか中途半端にそそくさと切り上げてしまっている」と筆者をして言わしめてしまう、「正直どうしようもないスリラーで」しかないのだから。しかしそんな小説であっても、とある雑誌において戦後SF史に残る珍本との栄誉に授かったとなれば、どうにもコレクター心をくすぐられずにはいない。さりとてそうそうマーケットに出回ることもない。今となっては復刻版が出回っているというが、当時においてそんなものはなかった。

 そこで筆者は何をしたか? 『オレだけ醗酵人間』を製本してしまったのである。

 ひょんなことから近隣の県立図書館に所蔵されていたことを知り、原物を取り寄せるところからはじまる。いかなる使命感に駆られてなのか、1958年刊のそのテキストの経年劣化を忠実に写さねば、とまずは全ページをカラーコピーにかける。当然、縁は白いままなので裁断を施して色味を統一する。借用した原本に付されていなかったカバーは、『醗酵人間』を紹介したテキストに折よくカラー写真で収録されていたことに目をつけて、それを実寸大にまで引き延ばして調達する。ハードカバーの台紙には、同じ厚みのテキストをブックオフで購入して分解することでまかなう。

「かかった経費は全ページのカラーコピー代、拡大倍率を何度も間違えたカバーと表紙用のカラーコピー、製本キットで〆て1万数千円。しかしある意味かかった金額自体はどうでもいいことであって、それ以上にフツー(?)の勤め人が、3週間もの間、勤務時間以外のほぼ全てを1冊のゲテモノ本の復刻に捧げ尽くしたことが何より尊いのだ」。

 読むだけならば公立図書館で借りればそれでおしまい、無料である。手許に置いて噛みしめたくなる、そんな魅力もプロットの中にはおそらくはない。本文が「ゲテモノ」と分かり切った上で、これだけのリソースを注がずにいられないのである。物神崇拝と呼ばずして、この儀式をどうして説明することができるだろう。

 本には読む喜びがある。本には買う喜びがある。そして何より、本には作る喜びがある、らしい。

 

 そんな筆者に試練の時が訪れる。自宅マンションが、いやもとい古書が、ゲリラ豪雨の襲撃を受けたのである。

 そもそもからして「本達にとって最大の敵は水。ほんのわずかでも水漏れをすると、稀覯本であっても取引価格はたちまち10分の1以下に下がってしま」うことなんて百も承知である、だからこそ住居を選ぶにあたっての基準として、「雨漏りの恐れがある最上階を避ける」、「浸水の恐れがある1階を避ける」、これらの要件も定めておいたはずだった。

 ところが「リビングは、天井10カ所以上から轟轟と滝の如く流れ落ちる濁流に侵食され、床にはすでに2センチほど水が溜まっていた。当然床積みしていた本の下のほうは水没しているが、それを救おうにも、移すべき場所さえなく、その場ではただ放置するしかなかった。/……それにしても、本の虫が長年かけ精魂込めて築き上げた本の城に、推定300リットル以上の汚水(古い建物の内部を通り抜けてきた水は、恐ろしく汚なく、また強烈な異臭を放っていた)がよくもまあ降ってきたものである」。

 さまざまな幸運に助けられて稀覯本の被害をほぼゼロで済ませることができたのはせめてもの慰めで、とはいえこの精神的ショックは、筆者のコレクション欲求をしぼませるには十分なものだった。

 そんな筆者に思わぬ転機が訪れる。それが古書蒐集をめぐる原稿のオファーだった。

「お話をいただいた当初は、こんな状態でとても執筆などできまいと思っていたが、折角のチャンスをいただけたのだからと自らを叱咤してお引き受けしてからは、本の分類などのペースも速まり、目的意識や意欲も高まった。それどころか、水害前であればどこに何があるか、混乱し過ぎてまったくわからない状況だったのが、かえってある程度捜すこともできるようになり、それはそれで依頼をいただいたタイミングは、実はピッタリだったんじゃないかと前向きに考えられるようになってきた。何より、自分がいかに本が好きであるかということが、改めて強く実感できたのは大きな収穫であった」。

 この癖が仮になかったらここまでの立ち直りを示すことができただろうか。

 筆者がコレクションに費やした額は、あるいは億にすら到達しているのかもしれない。たとえ強欲と謗られようとも、人はモノでできている、フェティシズムで活かされる。

 神の怒りの大洪水のその後で、おそるおそる箱舟を抜け出したアララト山のノアが見たのは、神がかけた希望の虹だった。

 

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