あんなカレーにな

 

 僕は第一回『Q-1グランプリ』のファイナリストとして、六本木のスタジオの解答席に立っていた。……賞金は一千万円――手にしたことのない大金で、おそらくそれなりに人生が変わる額だ。……

「ついに大詰めです。次の問題で優勝者が決定します。さあ、初代『Q-1グランプリ』王座は三島玲央、本庄絆、どちらの手に渡るのか」

 MCが小さくうなずき、「次に行きましょう」という合図を送る。モニターに映るアナウンサーが再び息を吸う。スタジオ全体が静寂に包まれる。

「問題――」

 ついにきた。一千万円。次のクイズに一千万円の価値があることを、僕はぼんやりと意識する。緊張で、ボタンに置いた右手が少し痙攣している。

 問い読みが息を吸い、口を閉じる。

 その瞬間だった。

 バァン、という早押しボタンが点灯した音が聞こえた。自分が間違えてボタンを押してしまったのではないかと思い、慌てて手元のランプを確認したが、明かりは点いていなかった。僕はすぐに隣の本庄絆を見た。彼のランプが赤く光っていた。

 僕は真っ先に「ああ、やっちまったな」と思った。本庄絆に同情した。まだ問題は一文字も読まれていない。一文字も読まれていないということは、この世界を構成するすべての事物の中から――つまり無限通りの選択肢から――答えをつまみあげないといけないということだ。……

「ママ.クリーニング小野寺よ」

 本庄絆はそう口にした。

「え?」

 思わず僕は声を出していた。極度の緊張で、本庄絆の頭がおかしくなってしまったのではないかと疑った。横を向いて本庄絆を見た。無表情のまま、まっすぐ前を見つめていた。テレビで何度も見たことのある表情だ。やるべきことをやって、あとは世界が自分に追いつくのを待っている表情。……

「ママ.クリーニング小野寺よ」

 もう一度、本庄絆が口にした。

 それから十秒ほどの間があって、正解を示す「ピンポン」という音が鳴った。……

 僕はこれからクイズを解く。

Q. なぜ本庄絆は第一回『Q-1グランプリ』の最終問題において、一文字も読まれていないクイズに正答できたのか?」

 


www.youtube.com

 

 百人一首かるたの世界に、「むすめふさほせ」なるものがある。

 この各七文字をもってはじめられる句はそれぞれ一通りしか存在しない。「む」に続く上の句は「むらさめの つゆもまたひぬ まきのはに」の他にない、ゆえに「む」と聴こえた瞬間に「きりたちのほる あきのゆふくれ」の札をはたくことができる、というように。

 反対に、「あさぼらけ」ではじまる句がワンペア存在している。この場合は、次に「あ」が来るか「う」が来るかをもって、ようやく下の句の札に手を延ばすことができる。もっとも、達人の域に至った者は、その微妙な息遣いを聴き分けて、この「あ」か「う」が明快に発声されるのを待たずして既に反応しているという。

 

 同様に、「クイズには『確定ポイント』というものがある――いや、正確には『ある』とされている。

 確定ポイントとは、問題文の中でクイズの答えが確定するポイントのことだ。問題が読まれる前、無限に存在していた選択肢は、問題が読まれるにしたがって選択肢の数を減らしていく。そしてどこかのタイミングで一つに絞られる」。

 問われるべきその知的瞬発力において、たぶん早押しクイズと百人一首は限りなく似ている。

 例えば「『幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである』という書き出しの一節も有名な、ロシア人作家トルストイの小説は何でしょう?」という問題が出されたとする。

 最後まで聴けば、たとえそのくだりを知らずとも、『戦争と平和』との二択のあてずっぽうから正解に辿り着くこともできるかもしれない。もしくは「ロシア人作家」のあたりで、ドストエフスキープーシキンを天秤にかけながら、そのギャンブルに打って出ることもできるかもしれない。しかしこの『Q-1グランプリ』ファイナルにおいて、「僕」こと三島玲央は「こうふくなか」をもってボタンを押し、そして正解を導く。

 続くくだりが「僕」の読み通りだったとしても、そのことをもってこの6字を「確定ポイント」と呼ぶのはあまりに早計である。例えば、この書き出しではじまる小説『アンナ・カレーニナ』を記した小説家は誰? という問題も想定できるし、この小説においてアンナがその間を揺れ動く男性ふたりに共通するファーストネームは何? なんて問題も大いにあり得る。あくまで書き出しは「不幸な家庭」を導くための枕詞でしかなくて、先頃〇〇と離婚した俳優といえば誰? なんてゴシップ出題である可能性もなくはない。

 そしてここに、早押しクイズが単なる知識自慢とは似て非なる特異性がある。

「間違っているのは誤答することではなく、恥ずかしがって何も答えないことだ。/……クイズも現実世界も同じだ。なんでもやってみるに越したことはない。誰かに笑われたって構わない。恥ずかしいという気持ちのせいで自分の可能性を閉ざしてしまうことの方がもったいない」。

 時として、見る前に跳べ。「確定ポイント」を悠長に待っているのでは、往々にしてコンテストに競り負ける。「クイズの強さとは相手に先んじて正答を積みあげる強さ」であるとするならば、しばしばそこには一種の賭けが要求されずにいない。

 そして本書最大のクイズに戻る。果たしてまだ一音すらも発せられていない段階で、「『ビューティフル、ビューティフル、ビューティフルライフ』の歌でお馴染み、天気予報番組『ぷちウェザー』の提供やユニークなローカルCMでも知られる、山形県を中心に四県に店舗を構えるクリーニングチェーンは何でしょう?」との問題をどうして予測することができたのか、と。

 

 その昔、『クイズダービー』なるテレビ番組が放送されていた。今も日々、CSで見ることができる。

 このプログラムのフォーマットは、単に回答者同士がクイズの正誤を競うことにはなかった。オッズを出して勝ち馬を予想させる、そこに視聴者が二重に没入可能な醍醐味が生まれた。

 この企画において最も場が白けるシチュエーションといえば、全員が不正解で賭け金がそのまま払い戻されてしまうことである。従って、難易度をいかにチューニングするかがキモとなってくる。誰かしらは正解する、ただし視聴者を含めて誰しもが正解できるほどにはたやすくはない、なおかつ篠沢教授井森美幸といった穴馬パネリストにも一縷の望みを抱かせる、そんな難易度。

 そうして皇帝シンボリルドルフばりの本命回答者として「はらたいらさんに3000点」は生まれた。ネットを鵜呑みにする限り、彼の通算正解率は74.8パーセントを記録したという。番組の構成上、事前に大橋巨泉やスタッフから答えを教わっていた、そんな八百長を勘繰る声はこのベビーフェイスが死してなお止むことはなかった。

 しかし真相はどうやら違うところにあった。作家が問題の素材として参照していた雑誌を、本業のマンガ向けの時事ネタを拾うためか、どうやらはらも丹念に読み込んでいるらしい、そんな気配を掴んだ関係者がいわば当て書きして出題するようになった。狙いははまる。他のパネリストが見当外れの珍回答を繰り出す中、この宇宙人だけは涼しい顔で正解していく、あたかも前もって何もかもを知っていたかのように。

 的を目がけて矢を飛ばすのではない、矢が飛んでいく方向に的を置いてやればいい。

 双方が「やるべきことをやって、あとは世界が自分に追いつくのを待」つ。

 そうして伝説の長寿番組の大団円は作られた。

 

「『今週気づいたこと』というフリートークで始まるのがお決まりになっている、『ラジオの帝王』こと伊集院光の看板番組は何でしょう?」

 その放送の中で数年前に聴いた一節。

 ふるいけや かわづとびこむ みずのおと

 誰しもが知るこの句は、松尾芭蕉がたまさか目にした光景をしたためたところから生まれたわけではない、という。とある句会の席にて、「かわづとびこむ みずのおと」という振りに対して、その出席者のひとりであった彼がひねり出したのが、「ふるいけや」だったという。脳内の箱庭にはただその音と波紋だけがあって、たったの五文字をもって無数にあり得たかもしれないその光景の枝分かれから最適の一パターンをたぐり寄せた。

 ここでもまた、見る前に跳べ、暗闇から半信半疑に世界を開く、「確定ポイント」すら待たずして正解の隘路をたぐり寄せるクイズ回答者によるその営みは、芭蕉の境地にもしかしたらとても似ている。

 

 アイザック・ニュートンの肖像を示されて、ジョージ・ワシントンと答えることも、ジャスティン・ビーバーと答えることも、マリリン・モンローと答えることも、マイケル・ジョーダンと答えることも、織田信長と答えることもできる。あるいはそこに一枚の画像すら提示されない段階で、これらの答えを叫ぶことだってできる、そしてそこに勝利の凱歌が響き渡る可能性だってなくもない、たとえそれがラクダが針の穴を通るような確率であったとしても。

 それは単に無知の仕業か、はたまた奇をてらってか、トンチキ回答なんてどうどでも出せる。ただし正答に至ろうとすればその導きの理路は自ずと限られる。

「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」

 過程か、家庭か、クイズの世界とこの格言が重なってくるのは、たぶん偶然ではない。

 

shutendaru.hatenablog.com