みんなが手話で話す学校

 

 20174月。私は、新学期の始まりを撮影するために、ある学校を訪れていた。……

 私が訪ねたのは、東京・品川区にある私立のろう学校、「明晴学園」。……子どもたちの言葉は、「手話」だ。声は一切出さず、手の言葉でコミュニケーションをとる。その手の言葉は、ジェスチャーでもなく、日本語に合わせた動きでもない。

 私も耳が聞こえないが、ふだん、子どもたちのように手話では会話しない。補聴器をつけて、音声の世界で生活する難聴者だ。そのため、子どもたちの手話をじーっと見ていても、何を言っているのかまったくわからない。そこで、ロケに同行する手話通訳者が、ワイヤレス・ピンマイク越しに、子どもたちが何を話しているのか、ヒソヒソと手話を日本語に翻訳してくれる。しかし、私はその声を聞き取ることができないので、現場には「文字通訳」と呼ばれるスタッフが付き添い、私の耳の代わりとなって、声を文字に書き、伝えてくれた。それを読んで、私は何が起きているのかを把握していた。……

 子どもたちの小さな手は止まらない。次から次へと何かを話しかけてくる。私は思わず、「うるさーい! 早く席につきなさーい!」と、叫んでいた。静かな廊下で、だ。……

 何度も言うが、そこに声はない。手話を知らずに、その光景を見ていたら、私は気がつかなかっただろう。とびきり、にぎやかな新学期が始まっていたことに。

 

 私は、この日から、およそ1年間にわたり、明晴学園の学校生活を記録することにした。この学校を撮影しようと思った一番の理由は、とにかく明るく元気な子どもたちの姿に惹かれたからだ。手話でありのままに自由にコミュニケーションをとる姿が、とても輝いて見えた。

 聞こえない“ろう”のままの自分を思いっきり楽しむ子どもたちの姿から、社会の「当たり前」を覆してみたい。共に生きるってどういうことか、視聴者に“一緒に”考えて欲しい。そんな思いから、子どもたちに密着する日々が始まった。

 

 このドキュメンタリーの舞台となった明晴学園にはひとつ大きな特色がある。

「全国に86ある(2017年当時)ろう学校のうち、日本手話を『第一言語』と位置づけ、教育を行っているのは、ここだけだ。/アメリカの子どもたちが母国語の英語で学ぶように、中国の子どもが中国語で学ぶように、明晴学園のろうの子どもたちは、全ての教科を“母語”の日本手話で学ぶ」。

 もう少し補足の説明が必要かもしれない。日本で主に用いられている手話には実は二種類のバージョンがある。ひとつはこの「日本手話」、そしてもうひとつは「日本語対応手話」、後者の場合、「日本語がベースにあり、声や日本語に合わせて手と指を動かす」。

 だったら、とおそらくは速やかに推測を働かせる方もおられることだろう。歴史の浅いこの1校を除いた残りの85校では、みな「日本語対応手話」が用いられてきたのだろう、と。

 ところが「実は、多くのろう学校では、1990年代初頭まで、手話が禁止されていた」。

 そこで代わって叩き込まれてきたのは「口話法」、いわば読唇術に似て、相手の口の動きからことばを読み取り、その唇のかたちをまねることでろう者も声を介した受け答えを目指すというもの。「音声日本語が主流の社会に出たときに、困らないようにという考えから行われてきた。そして手話は、この口話教育の妨げになるとみなされ、教育現場では徹底的に禁止され」てきた、そんな過去を持つ。

 そのアンチテーゼが、明晴学園およびその前身のフリースクール龍の子学園だった。

「この学園最大の特徴は、ろう学校で長年禁じられても、ろう者の間で引き継がれてきた『日本手話』で学べることだった。『日本語の獲得』を第一の目標としてきたこれまでのろう学校とは、逆を行く教育方針だった」。

 

 ゆえに、このテキストは宿命的にとてつもない矛盾をはらまざるを得ない。なにせ紛れもなく当の日本語で書かれていると来ているのだから。

 明晴学園では、「日本の地域社会で生きていくために、『読み書き』を中心とした日本語を、『第二言語』として学ぶ、バイリンガル教育を実践している」。自然言語としての日本手話が先行した上で、あくまで「日本語」は生徒たちにとっては「第二言語」という位置づけに過ぎない。つまり、外国語を学ぶに際して生じる蹉跌に彼らもまた、つまずくことを余儀なくされる。いかに標識や活字やスマホを通じて四六時中包囲されていたとしても、「ろうの子どもにとって、日本語を書くことは“翻訳”なのだ」。

 その言語でこのテキストは編まれている。彼らにとっての第一言語ではなく。

 

 この視覚ベースの手話という言語と、映像という媒体はいかにも相性がよかった、らしい。

「静かで、にぎやかな世界」の編集担当者は、素材のラッシュにさらされているうちにはたと気づく。一見すれば手の動きが飛び交っているだけのはずのその光景が、「だんだん見ているうちに、たしかにうるさいなって思いはじめて。つまり、いきいきしゃべってるっていう感じが、徐々にわかってくるんだよね」。

 こうした筆者でも学校関係者でもない第三者を媒介させることが、期せずして本書に化学反応をもたらす。

 確かにこのテキストは幾枚かの写真を別にすれば、活字と活字とあと活字をもって構成されている。カメラがとらえた学園生活のその姿は見えないといえば見えない。しかし、筆者自身とは別に、それを映像越しに目撃したいわば語り部をはさみ込むことで、ときに立体性が舞い降りる。

 先の編集マンは言う、「言葉は僕にはわからないからねえ。でも、どこかで一人ひとりの性格が手話から見えてきたんだよね。一人ひとり顔が違うように、手話にも個性があって、それが見えてきた」。

 あるいは担当プロデューサーは言う、「制作していたときは、息子が保育園の年長で、小学校進学を控えていろいろと不安があった時期でした。そんなときに、編集室で明晴学園の子どもたちの姿を見て、『あー、こんな学校に行かせたい』と本心で思ったんです。子どもたちが自分のアイデンティティーや『言葉』をきちんと持っていて、さらに一人ひとりが、その習得した言葉と自らの考えを持って、他人と議論を深めていました」。

 もちろんこれらは日本語で証言されて本書に掲載される。しかしこの語るという身振りが、ときにまだ見ぬドキュメンタリーが伝えていたかもしれない何かを読み手に見せてしまう。「にぎやか」な、そのざわめきが脳裏に焼きつかずにはいない。聞けば見えてくる、この作用は、筆者とは別の人格を介していなければたぶん生まれてはいない。

「言葉」を持つ彼らが、学園を包む「言葉」に気づきそのことを語る、その瞬間、マジックが宿る。

 

 明晴学園が闘いの末に獲得した「言葉」をめぐる、ハイライト・シーンがある。それは筆者が卒業間近の中学三年生たちにとある質問をぶつけた際のこと。

「聞こえるようになる、魔法の薬があったら飲みますか?」

 その回答については、あえてここには引用しない。しかし、そこには一様に先人たちから引き継いだ、彼らの「言葉」をめぐる矜持があった。

 彼らには「言葉」がある、彼らにはトポスがある。

 同じような質問を仮に日本語話者に向けてぶつけてみることを想像しよう。

 英語が第一言語になる、魔法の薬があったら飲みますか?

 その妙薬によって失われてしまうかもしれない何かをどれほどの人が慈しむことができるだろう。つまりは、変えられてしまう自分自身をどれほどの人が慈しむことができるだろう。

 

 

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