因果は巡る糸車

 

 第二次世界大戦(日本にとってはアジア太平洋戦争)において、日本人の戦没者数は310万人、その中で軍人軍属の死者数は230万人とされている。……

 この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者過半数が戦闘行動による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。……

 戦死よりも戦病死の方が多い。それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる。悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。大量餓死は人為的なもので、その責任は明瞭である。そのことを死者に代わって告発したい。それが本書の目的である。

 

 例えばニューギニアの出来事。

 形勢逆転を期して、モレスビー陥落のために大本営が立てた計画は、北東部の港町、ラエとサラモア――後、さらに西部へと「転進」――から上陸した後、そのまま南下、ブナを奪還するとともに要衝ケレマを支配下に置いて包囲網を構築するというもの。ところでこのニューギニア島、約77万平方キロメートルの面積を誇り、しかもその中心には5000メートル級の山脈が走っている。しかしこのシミュレーションに、基礎的な地理情報が織り込まれている形跡はない。地図上の直線距離をいえば、確かに100キロメートルに過ぎない、ただし承前の通り、そのルートは緑の覆う大山脈が走る獣道である。途中立ち寄れるような拠点が設けられているわけでもなければ、まさか整備された道路が走っているはずもない。つまり、補給などもとより想定すらされていなかった。一にそもそも知らなかった、二に速攻で落としてさえしまえば兵站の薄弱も問題とはならない、大本営のヴィジョンなどこの程度のものだった。日露戦争の栄光を忘れることのできない1940年代の彼らにとって、物流手段は馬だったし、地上作戦といえば火力ではなく白兵だった。

 そして何が起きたか、計148000人もの兵力を送り込まれながら、帰還を果たしたのはわずかに13000人、実に135000人の死を引き起こした。

 片や米軍は早々に機動力を生かした「飛び石作戦」を選択、包囲するつもりがむしろ気づけば先回りを許す羽目となった日本兵にできたことといえばジャングルをさまようことだけ。連合軍にしてみれば、密林に向かって闇雲に弾薬を叩き込むまでもない、ましてや歩兵を投入するなど愚の骨頂。哀れに干上がる「彼らの前に立ちはだかったのはただ飢餓と熱帯病であった」。辛うじて命からがら開けた街へとたどり着いたところで、待ち伏せしていた敵軍に一網打尽を余儀なくされる。たとえ囚われの身として九死に一生を得ようとも、彼らに課された戦陣訓が命じるところは、「生きて虜囚の辱めを受けず」――

 

 原著の出版は2001年のこと、前線における戦死者とされた人々の過半数が、餓死と病死によって命を落としたとの報告は、センセーションをもって受け取られたことだろう。現に、本書自体を手に取ったことのなかった私にとってすらも、この告発の結論部については複数のテキストにおいて既に周知の前提として刻まれているところとなっていた。

 その点に鑑みれば、本書には新たな発見がないといえばないのかもしれない。

 しかしそのことは、『飢死した英霊たち』が数多の後継者を持つことでもはや歴史的機能を終えた、ということをまったくもって意味しない。むしろ、2022年に改めてひもとかれるこのテキストは、紛れもなく現代の鏡像を映さずにはいない。

 日露戦争の成功体験を忘れられぬまま、技術革新に立ち遅れ続ける――いや、その現実すら認めようとしない――その姿が、どうして高度経済成長のものづくり神話に固執し続けるバカどもと重ねずにいられようか。

 基礎的なプラットフォームすら整備できない輩が、そうした物量のリアリズムすら担保できぬ己が経済力の乏しさを直視しようともせずに、精神主義で吹き上がり、そして大衆が喝采をもって応じる。今日のニュース風景そのものではないか。

「もともと陸軍が範としたヨーロッパ大陸国の徴兵制の軍隊は、解放された独立自営の農民、すなわち自立した国民の存在を前提としていた。そうした国民を基盤とする兵士には、愛国心、自発的な戦闘意識を期待することができたのである。ところが日本では、明治維新フランス革命のようなブルジョア革命とはいえず、農民の多くは未解放のままに取り残された。……つまり兵士の愛国心、自発性に期待が持てなかったのである。そこで兵士にたいしては、機械的服従するようになるまでの強制と習慣化に加え、一方ではきびしい規律と過酷な懲罰をもって接したのである」。前近代的な日本の教育現場、労働市場のオンタイム・リポートとして、これほどまでに見事なサマリーがあるだろうか。

 そうした文脈に即して言えば、本書の知見は何ら現実にはフィードバックされてなどいない。

 前線然り、銃後然り、戦時下の国民どもは声を揃えて謳っただだろう、欲しがりません、勝つまでは、と。それは奇しくも、現下のスタグフレーションに放り込まれた国民どもが今まさにそう信じているように。ウォンツとサプライを失した結果、何が起きた? 餓死が起きた、病死が起きた。戦うにすら至らない、みすみすその過ちを繰り返そうというのだから、イーロン・マスクが言い当てる通り、何をせずとも早晩「日本は存在しなくなる」。

 退屈極まる歴史の法則は必ずや教えるだろう、単なる社会政策の失敗を能動的に自己責任などと引き受けて、分相応に足るを知るなどという荒唐無稽、無知無能な寝言が幸福をもたらした瞬間などひとときたりともなかったことを。

 やり過ごせばいずれ事態は好転する、そうして現実から目を逸らし、失われた数十年を繰り越し続ける国民と、降伏の道を自ら閉ざし玉砕と餓死の二者択一へと追い詰めた軍部に、その精神性においていかなる差異を認めることができるだろう。

 無論、そのいずれに対しても同情に資する点など見出し得ない。

 

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