無-難

 

 本を読むことを仕事にしています。

 といっても、いわゆる「読書」とは少し違います。本が出版される前にゲラ(校正刷り)と呼ばれる試し刷りを読み、「内容の誤りを正し、不足な点を補ったりする」(『大辞林』)のがわたしの仕事です。……

 どんな本を読むかは個々人の選択です。校正の場合は編集者から依頼されたゲラを読むので、自分なら選ばないような本を読むことのほうが、わたしは多いです。自分なら選ばない本を読むのは退屈かと思いきや、一冊の本をくり返し読む、理解できるまで読む、とことん調べながら読むことには、それまでの「読書」にはないおもしろさがありました。編集者から新たなゲラを預かって最初の一ページをめくるときはいつも、期日までに読み終えられるだろうかという不安と、今度はどんな世界が待っているのだろうかという興奮が入り混じり、マラソン大会でスタートラインに立つときのような気分を味わいます。十年以上続けても飽きることはありません。そのおもしろさをひとことでいいあらわせたらと思うのですが、うまいひとことが思いつかない。だからこの本を書きました。

 

 引用文を打ち込むのに、これほどまでに緊張を強いられるテキストもそうそうない。一応普段から書き手のクセに配慮してはいるつもりでも、こんな短文なのに、PCの学習の通りに雑然と変換すれば、「校正」は後世になったり更生になったり、「くり返し」は繰り返しに、「いいあらわせたら」は言い表せたらに、といった具合にミステイクが気を抜けばすぐ入り交じる、いや「入り混じる」。

 細心をもってそんな誤植を拾うために、筆者は「文章を『読む』というより文字を『見る』。/……基本的には一文字を見るのに〇・五秒なら〇・五秒と、すべての文字に同じだけの時間をかけて見る」。

 そう謳う校正者の手によって書かれたテキストである。普通に考えれば、自身のキャリアの中で、そのように目を凝らして「見る」ことではじめて気づいた誤植をめぐる興味深いエピソード・トークが期待されるところだろう。例えば実際に鉛筆を入れたゲラを並べていくことで、最初に受け取った原稿がどのようにブラッシュ・アップされていくのか、そんな制作過程を披露していく疑似ワークショップもアプローチとして考えられるだろう。

 しかし、筆者自身によるそうした具体的な経験が本書に綴られることはほぼない。作業プロセスの一切は、ごく抽象的なかたちでしか見えてこない。例えば「消しゴムをかけるときは少しの跡も残らないよう」にという話は出てきても、それがかつてどのテキストを手がけた際に起きたいかなる種類のアクシデントで、いかなる顛末をたどったのか、といった点は決して明らかにされることはない。校正の実務が垣間見えるシーンがあったとしても、それは専ら他のテキストからの引用に頼る。

 正直なところ、読中の印象といえば、終始雲をつかむような話ばかりがきこえている――果たして「聞こえる」なのか「聴こえる」なのか――ようで、どうにも無難との念が拭えずにいた。

 しかしあるときはたと気づく、この書かれなかったという事態こそが、無難という事態こそが、筆者の携わる校正という仕事のありようを何よりも物語っているのではなかろうか、と。

 

「校正を入れることの意義は目に見えにくい。なぜなら何も問題がないといえるのが校正が十全に機能した結果だからです。校正を入れなかったことによってなんらかの問題が起こって対応を迫られたり、場合によっては回収や刷り直しという現実的な損害を被ることもあるかもしれない。でも、校正が機能しているときには何も起こりません」。

 他方で筆者が認めるように、何重ものチェックをかけても誤植は「残っているはず」なのである、つまり、多くのテキストにおいては現に何かが「起」きてしまっている。とはいえ、「校正が機能」することで未然に防がれたエラーを改めて蒸し返すことは、結果として何かを「起」こしてしまうに等しい。あえて「残」してしまうその墓荒らしが、たとえどれほど興味深いものであったとしても、校正という職業に対する裏切りになってしまう、寝た子を起こして何になる、そうした規範的意識が本書のタッチに反映されているのではなかろうかと。

「本は校正をされているもの、間違いがなくてあたりまえのものだと思われている。裏を返せばそれは、本が信頼されているということではないでしょうか。その信頼はどのようにして培われてきたかといえば、これまでに世に出た数多の本の積み重なりです」。

 テキストを論じるに無難と形容することは、ほとんどのケースにおいて、毒にも薬にもならないという酷評に限りなく近い。そう聞かされて――早期化されて――誰がその本を手に取るだろう。しかし、文字通り難が無いというこの事態は、こと校正という「減点方式の仕事」においては、最上級の賞賛となる。それは出版に限らないのかもしれない、「あたりまえ」のことが「あたりまえ」に営まれている、そのつつがない幸福はすべて、古来より積み重ねてきた連綿たる「信頼」に由来する。

「その信頼を失わないために、損なわないために、やはり校正はあってほしい」。

 転ばぬ先の杖が売り上げを倍増させてくれることはない、しかし一度失われた「信頼」は金では買えない。「信頼」の置けない社会が実のところ、いかにハイ・コストな代物であるかをわれわれは日々知らされている。そんな腐り切った世界の奈落に自らを叩き込んだからこそ、この筆者の切なる願いに深く共感させられずにいない。

 

shutendaru.hatenablog.com

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