グレイテスト・ショーマン

 

 

 剣や炎を呑みこむより、体重1キロの人間を救うほうが、見世物としては上等といえる。当時、そんな施設を持っている病院はほとんどなく、仮にあったとしても、ずかずかと入り込むわけにはいかない。そんなわけで、集まった人たちは日々、25セント硬貨を差しだして低体重児を見物した。……運がよければ、収容されている赤ちゃんに看護師が食事をさせたり、風呂に入れたりするようすが見られた。フランス人看護師のマダム・ルイーズ・レチェは、キラキラ輝くダイヤモンドの指輪を取りだしては、赤ちゃんの手首にはめた。腕の上のほうまで通せば、どんなに細いかよくわかる。……

 赤ん坊たちは、雑然とした病院の、血まみれの分娩台からまっすぐ彼のもとに連れてこられた。医師たちから、ほどなく死ぬ、あるいはマーティン〔・クーニー〕がいなければ死ぬ、と宣告された赤ん坊たち。ほかに希望はなかった。1900年代の彼は、シカゴのアミューズメントパークの展示場にいた。ほがらかなヨーロッパ人で、多くの人から名士と目されていた。ただし医学界だけは例外だった。大半の医師からは無視され、不安をかき立てる存在とみなされた。命を救っているとはいえ、滑り台や見世物小屋のどよめきのかたわらに未熟児たちが展示されていることに対して違和感を覚えていたのだ。

 

 この男、マーティン・クーニー、いかにもわかりやすい、ザ・グレイテスト・ショーマンである。

 恥ずかしげもなくドクターの肩書を僭称こそするものの、実態といえばもちろん、医学の専門教育を施されたこともない、山っ気全開の興行師でしかない。経歴どころか、アメリカにわたるまでのヨーロッパにおけるキャリアの何もかも、その姓名さえもが真っ赤な嘘で塗り固められていた。万博において彼の管轄する保育器と未熟児が展示されていたのもあくまで催事場、つまりは博覧会に乗じて集客を図る見世物小屋――それも有料――の一角に過ぎなかった。

 何もかもがフェイクだった、クーニーが事実として数多の未熟児たちの命を救い出した、という一点を除いては。

 

 何かしらの加熱システムで子どもの体温をキープする、そうした保育器技術の揺籃期、20世紀初頭にあって、それらを備えている病院など皆無に等しかった。

 医療機関が見殺しにする他ない我が子の命を救うために親が取れる選択肢といえば――見世物小屋に駆け込めばいい、駆け込むしかない。彼らの命を助け出すために残された一縷の望みがマーティン・クーニーだった。

 そして彼は結果的にせよ、紛れもなくそれに応えた。親族に莫大な医療費をふっかけたわけではない、保険システムが何をしてくれることもない、元手はあくまで赤の他人の野次馬根性を煮しめた入場料だけだった。ただギャラリー向けに器の中に横たえておいただけではない、医師も看護師も24/7体制で張りつけた。ドリームランドが火災に襲われた時でさえ、赤子たちはその炎を免れ、ひとりの犠牲者も出さずに済ませた。

 誰が何を言おうとも、この興行師は総勢7000人もの未熟児に生を吹き込んだ。

 

 プロモーターとしての面目躍如、千載一遇のチャンスが訪れたのは、1934年のことだった。

 ニュージャージーで生を享けたその未熟児エマニュエルの体重はわずかに539グラム、すぐさまクーニーの営むアトランティック・シティ内の施設へと移されるも、運の悪いことに会期末が近づいていた。

 ここで彼は一計を講じる、1600キロ離れたシカゴの〈進歩の世紀博覧会〉へと当時わずか900グラムの乳児を列車で移送するように命じたのである。輸送するための車両を一両丸ごと借り切って、客室内の温度をキープするなど万全の配慮を施されたこの旅路にどうして全米が熱狂しないわけがあっただろうか。

 大々的なキャンペーンを打つ傍らで、家族に向けて看護師たちはこまめに手紙で近況を知らせ続けた。あるときには、シカゴまでの往復のバス代として3ドルが同封されていたことさえあった。

 しかし懸命のケアも報われず、エマニュエルは万博の閉幕と時を同じくして息を引き取った。

 

 クーニーの来歴を追いながら、何となく思い出していた人物がある。

 その人物、有田音松という。戦前に薬局のフランチャイズ・ビジネスでその名を轟かせた人物である。万病の妙薬を謳って広く業務を展開したこの有田ドラッグが今日においてなお語り継がれる理由のひとつが、その店頭にディスプレイとして置いていた人体模型だった。もっともそれは単なる理科室で見るような標本ではない。もげた鼻、膨らんだ腫瘍、皮膚を覆う発疹、と梅毒に蝕まれた肉体をカリカチュアしたものだった。一度見たら忘れられないそのグロテスクさに吸い寄せられるように、人々は有田の薬局へとせっせと足を運んだ。

 薬剤の効用に何の根拠もないことがやがて世に知れ、有田は失墜を余儀なくされる。その点については無論、同情の余地などない。しかし、この手法には今なお学ぶべきものがある、そのことはどうにも認めざるを得ない。性教育のご立派なお題目にはるか勝って、一度見れば脳裏に焼きついて離れない怖いもの見たさの一撃をもって、大衆に広く梅毒の危険性を叩き込んだ、このビジネスマン特有の嗅覚にどうして唸らずにいられるだろう。

 

 クーニーはやはり有田に似る。目的は単に集金に過ぎなかったのかもしれない。不手際により赤子が亡くなったともなればたちまち評判に傷がつき客足が離れてしまう、そんな戦きに突き動かされていたに過ぎないのかもしれない。しかし彼は現に数千人にも上る未熟児を守り抜いた。同時期に医療機関が提供していたサービスといえば「たいして効果のないふかふかのバスケットや温めた病室」、保育器は手間やコストを理由に敬遠されていた。そのような環境では生き延びることのできなかっただろう命が彼の手によりつながれた。

 大々的な宣伝戦略は、単に彼の見世物小屋へと足を運ばせたに終わらなかった。保育器の有用性が人口に膾炙することで医療政策の転換を促さずにはいなかった、もちろん彼が意図しただろうことではないにせよ。各病院や自治体へのロビイストの献身よりも、観衆という名の世論の後押し、すべて彼らはただ動員されるために生まれてきた、いみじくもパブリック・リレーションズパブリック・リレーションズたる所以が凝縮される。

 恵まれない子どもたちに愛の手を、という篤実な街頭募金の呼びかけでは集まらなかっただろう金額が入場料によって賄われた、この点にしてもいかに強調してもし過ぎることはない。

 ジャンクを山と果てなく積み重ねながら、有象無象によるトライ・アンド・エラーが時にとんでもない仕方で新たな時代を切り開いてみせる。神の見えざる手の偉大をつくづく思い知らされる。

 

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