サツキとメイ

 

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)

 

 

「一瞬のことだった。S君が、風に乗って、窓の外を横切っていた。左から右に。ここは校舎の二階なのに。灰色のTシャツに、濃い茶色の半ズボンをはいたS君の身体が、紙切れのように、風に煽られて、ものすごいスピードで飛んでいた。窓を横切るとき、S君は両目を大きくあけて、教室の中をじろりと見て、ふと寂しそうな顔をして――。

 それからサッと飛び去った。

 上体を起こし、窓硝子に顔をつける。S君が飛び去った方向に眼を凝らす。S君は、もうどこにもいない。風で吹き上げられた校庭の土埃が、もうもうと舞っているだけだった。……

 僕はS君の席を振り返った。僕の席の四つ右、二つ後ろ。

 そこだけ、空いている。ほかの席には、みんなクラスメイトが座っているのに、S君の席だけが、忘れられたようにぽっかりと空いている」。

 その日は、1学期の終業式、宿題を届ける当番に気づくと名乗り出ていた「僕」は、S君の家を訪れる。向日葵の花咲く庭に向かい合う和室、「僕」が窓の外に見た服装そのままのS君が、首を吊って死んでいた。

 すぐさま学校へと戻り見た通りを伝える。それを受けて担任と警察がS君宅へと急行すると、「なかったんだよ」。彼の死体は忽然と姿を消していた。

 

 一度は数のうちに入らないEinmal ist keinmal

 そんなドイツのことわざに触れたのは、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』でのこと。回malを人mannに変えたら、と検索してみたら、誰だって思いつく言葉遊びだよね、というところで、そんな舞台劇もあるらしい。

 ひとりは数のうちに入らない。

「誰だって、自分の物語の中にいるじゃないか。自分だけの物語の中に」。

「僕」ひとりなら、見たものの何もかもが「自分だけの物語」。しかしここに「僕」に寄り添う幼い妹がいる。やがて現れるだろう、蜘蛛へと転生したS君の存在も、「僕」のみならず妹の存在を通じて承認される。

 この仕組み、見たことがある、『となりのトトロ』。

 語り尽くされたエピソード、ポスターのアートワークにトトロとともに描かれるのは、サツキでもメイでもない謎の少女、当初、主人公はひとりで構想されていた。ところがいつしか、同じ暦に名の由来を持つふたりの姉妹へと分裂を遂げ、そして結果、マジックは引き起こされた。

 大人の眼は決してトトロを捉えない。トトロを知るのはただふたりだけ、すなわち幼児を具体した存在としてのメイと、半分大人半分子ども――言い換えれば、中途半端――という仕方で、妹のことばを担保する存在としてのサツキ。仮に主役がメイひとりならば単なるちびっ子あるある、山か何かを擬人化させたメルヘンごっこの域を越えなかっただろう作品が、サツキというメディア装置を通じて、観客の没入を達成する。いみじくもアニメの語源はギリシャ語アニマ、すなわち息、サツキというブリッジの経由をもってまさしく息が吹き込まれる。

 ひとりは数のうちに入らない。

 

「誰だって、自分の物語の中にいるじゃないか。自分だけの物語の中に」。

 現実の似姿としての『向日葵の咲かない夏』、そこにもし脱出口があるとしたら――

「悩んでいるときは、誰かに話を聞いてもらうのがいちばんだって」。

地下室の手記』の呪縛は、「誰か」を通じて克服される。