チェンジリング

 

 中学生ぐらいから、うーちゃんがネットで愚痴をつぶやく頻度はだんだん増えていきました。おまいもよおく把握していることでしょうが、かかがはっきょうし始めたかんです。……

 はっきょうは「発狂」と書きますがあれが突然はじまるんではありません、壊れた船底に海水が広がり始めてごくゆっくりと沈んでいくように、壊れた心の底から昼寝から目覚めたときの薄ぐらい夕暮れ時に感じるたぐいの不安と恐怖が忍び込んでくる、そいがはっきょうです。……

 かかは、ととの浮気したときんことをなんども繰り返し自分のなかでなぞるうちに深い溝にしてしまい、何を考えていてもそこにたどり着くようになっていました。おそらく誰にでもあるでしょう、つけられた傷を何度も自分でなぞることでより深く傷つけてしまい、自分ではもうどうにものがれ難い溝をつくってしまうということが、そいしてその溝に針を落としてひきずりだされる一つの音楽を繰り返し聴いては自分のために泣いているということが。

 

 精神病院への入退院を重ねるものの、「うーちゃん」はどこかで気づいている、「かか」がこの内攻から解き放たれる日はもう生涯訪れることはないのだ、と。そして、「うーちゃん」は刃を己に向ける。「かかをととと結ばせたのはうーちゃんなのだと唐突に思いました」。「とと」の浮気をトリガーに「はっきょう」の回路が発動したのならば、歴史のifを遡り、夫婦のかすがいととしての子、すなわち自分さえいなければ、そもそも「かか」は「かか」となることすらなく「はっきょう」に陥ることはなかったのだ、と。

 この設定に従えば、「うーちゃん」はあたかも自死を選ぶものと見える。しかしここにふたりに固有のロジックが関与する。「うーちゃんとおんなじように、かかは自分の肉と相手の肉とをいっしょくたにしてしまうたぐいの人間なんです」。すなわち、「うーちゃん」は「かか」であり、「かか」は「うーちゃん」である。ならば、いかなる「とと」も持たぬ存在として子を宿す「うーちゃん」から、ひとまずの「かか」の死の後、「はっきょう」を知らぬ無垢な「かか」は改めて生まれ直すことができる。

「うーちゃんはね、かかを産みたかった。かかをにんしんしたかったんよ」。

 果たして、腫瘍除去のための子宮摘出手術、限りなくノーリスク、を受けるべく「かか」が入院するその同日、「うーちゃん」はひとり無原罪懐胎を求めて紀州・熊野へ旅に出る。

 

 チェンジリング、そのモチーフは古今東西サンプルを欠かない。日本文学にその系譜をたどれば、誰をおいても大江健三郎の名を挙げぬわけにはいかない。

「孕まされて産むことを決めつけられるこの得体の知れん性別」をめぐる女性側からの再定義というジェンダー論もないことはないのだが、それが近現代フィクションにおいて新味を帯びているとも言い難い。取り替え子というすぐれて古典的素材に本書が付け加えた要素があるとすれば、それはすなわち、SNSの存在に他ならない。

「うーちゃん」が属するのは大衆演劇のファン・コミュニティ、鍵アカウントを用いて、その数人とオフ会を催すでもなくやり取りを交わす。学校生活は「かか」に巻き込まれるようにいつしか破綻、一応浪人中という体になってはいるものの、予備校なりに何かしらのサークルを持つでもない。

 そのいかにも象徴的なシーンが訪れる。山深くを進む電車に揺られるうち、ふと気づけば「うーちゃん」のスマホは圏外を表示する。他の乗客や、窓の外に点在する建物、地続きのはずの彼ら彼女らは、「うーちゃん」にとっては何ら社会を意味しない。「圏外」であること、SNSにつながらぬこと、家族と連絡が取れぬことはたちまち、「昔飛行機で十何時間もかけて行ったヨーロッパの国ぐによりもすっと遠いところに来てしまった感覚」を彼女に植えつけずにはいない。

 やがて彼女は思い至る、この「圏外」こそが「異国」に踏み入った証なのだ、と。「この、人に恐怖を抱かし圧倒する土地……記憶と想像のあわいにしかないような場所、決して住み着くことはないだろう場所」、ここになら「かみさまはいるかもしらん」、処女懐胎の奇跡も降り注ぐやもしれない。

 もっとも「異国」をさまようはずの彼女は、スマホの電源を断つこともなく、結局はアンテナを確保すると間もなくSNSに接続せずにはいられない。そしてつぶやく、「ひるから手術」、「もう最期かもしれないから、麻酔打つ前に話してきた」、やがて投稿するだろう、「母が亡くなりました」と。

 かつてアルベール・カミュが「きょうママンが死んだ」と書き、あるいはギルバート・オサリヴァンがその喪失を歌ったとき、彼らの母親はどうということもなくこの世に存在していた。全世界的なセンセーションの中で、受け手たちはまもなくその事実を知ってしまったことだろう。しかしSNSの中の「ラビ」の告白の真偽など誰もわざわざ確かめようとはしない。彼女が交わしてきたメッセージのすべてが実は自動生成のbotだったとしても、そこにさしたる驚きはない。

 互いに「肉」を分かつでもないSNSの中でならば、彼女はたやすく母殺しを遂行することができる。妊娠と出産を宣言するだけで、めでたく「かか」の生まれ変わりとして「とと」なき神の子の降臨も成就する。

 彼女が奇跡を呼び込める場所は、スマホの外に存在しない。

 

「自分がはっきょうしたのか手っ取り早く知りたかったら、満員電車にすわってみれ。ほかの席が満ぱんのぎゅうぎゅうまんじゅうなのにお隣がぽっかりあいていたとしたら、それがおまいのくるったしるしです。

 おまいがいないとき、かかには両隣を埋める人間はいないかん、うーちゃんは必ずかかを端っこに座らせて自分がしっかと詰めて隣に座ります」。

 熊野詣に乗り合わせる車中の他人にいかなる社会をも見出すことのできない「うーちゃん」は、排除の象徴としての満員電車の中で、その肉をもって隣の席を埋めることで、「かか」を辛うじてこの世に繋ぎ止める、すなわち、彼女自身をこの世に繋ぎ止める。ただし彼女は、弟である「おまい」ら親族を例外に、他の誰とも繋がらないし、繋がることを求めない。

「うーちゃんの属している社会はほとんどSNSと家だけに減っとりました」。

 そしてこの行きて帰りし物語は、単にかりそめの安全基地としてのSNSを削ぎ落として終わる。

 通過儀礼なき旅の果てに待ち受けるものは――さらなる自己参照の孤立の中で、遅かれ早かれ、彼女もまた「はっきょう」を余儀なくされる。もしかしたら、「かか」の死を送信したその刹那、彼女は既に「はっきょう」の向こう側へと渡ってしまったのかもしれない。

 

 ティーンエイジャー旅文学の金字塔Catcher in the Ryeは、「インチキ」な世界に「つかまえcatch」られる存在としてのホールデンが、「出会うmeet」ことへの気づきをもって世界との関係性を結び直して閉じる。

 しかし「うーちゃん」は誰と出会うこともない、そして彼女に突きつけられるのは、チェンジリングの不可能性でしかない。あくまで「かか」は「かか」のまま、メーテルリンク『青い鳥』のように旅というイニシエーションを通じてのパラダイム・シフトがもたらされることもない。

 なぜならば、ビルドゥングスロマンの前提としての成長という神話が既に失効しているから。

 不可逆の時の中で、ひたすらに彼女は彼女に幽閉される。天に召されるでも、地獄へと落とされるでもなく、何一つ変わり得ぬ自己参照空間を指して、それを例えば煉獄と呼ぶ。

 

 

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