「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

 

変わったタイプ (新潮クレスト・ブックス)

変わったタイプ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 この短編集の原題は、Uncommon Type

 

 uncommon、もしくはun-commonであることについて。

 例えばオープニング、「へとへとの三週間」の場合。「僕」とアンナの間柄と言えば、もとは高校の同級生、気づいたら半同棲、といって「僕を恋人だと思ってる?」「あたしを恋人だと思ってる?」そんなセフレ以上恋人未満の関係性。彼女に連れ出されたレストランのランチで供されるのは「サラダのサラダ、サラダ添え」。レトルトスープを口に運ぼうとしている体調不良の「僕」に向かって彼女が言うことには、「それってスープじゃないわよ。ナトリウムを袋に入れて売ってるだけ」。

「配役は誰だ」のヒロインは、アリゾナから勇躍ニューヨークへやってきた女優の卵、地元ではそれなりのキャリアを積んではいたものの、東海岸では門前払いの日々。転がり込んだ先のルームメイトとの関係もぎくしゃく、「宿主から見た寄生虫くらいにしか遇されていない」。偶然再会した知己から履歴書の書き方の指南を受ける。「ごまかして書いてることになりません?」「誰も気にしない」。キャリアも、果ては芸名すらも書き換えた――つまりは自らの過去をun-commonにした――彼女は晴れてキャストの座を獲得する。

「ようこそ、マーズへ」の主人公は、その日が19歳のバースデイ、10歳のときと同じように、父をサーフィンへと誘い出す。「母と二人の姉を愛する気持ちに、まったく嘘はなかった。しかし、でこぼこ道できいきい軋んでいる車輪のような女たちであることも、とうの昔から承知していた。……男と男が背中をたたいて抱き合い、『おれたちは仲間だぜ』と言いながら誕生日を記念する。どこの親父と息子にも、そういうことが必要だ」。しかしそこで父のもうひとつの隠れたun-commonな顔を目撃してしまった彼は、「これでもうマーズへ来ることもないだろう」。

 

 typeであることについて。

 その定義は、「心の中で思うこと」において明快に示される。舞台は現代、漠然と「おもちゃ」をつかまされて修理をせがむ「彼女」に向かって店主が熱弁する。「タイプライターというものは、正しく使えば、世界を変えることができる」。何点か試し打ちをさせてもらううちにお気に入りを見つける。「なぜ〈ロイヤル〉のサファリなんです?」と問われ、「先生の前の子供みたいな気分」で答えを探す。「あたし、まだ妊娠もしてませんけど、将来、子供が生まれたら、その子たちに、心の中で思うことを読んでもらいたいんです。だから、それまでに自分の手で、何枚も紙を使って、その繊維質にタイプの文字を押し込んでおきたいんです。これがほんとの意識の流れっていうものを書いて、……そのうちに大きくなった子供が読んで、人間とはどんなものかと考えてくれたらいいですね」。

 

「タイプライターというものは、正しく使えば、世界を変えることができる」。

 処女出版の新人とはいえ、本書を手に取るものならば誰しもが、トム・ハンクスというその名前に意識を奪われずにはいない。今さらその経歴を論じる必要もないだろう、いずれにせよ、キャリアのスタートにおいてすら既に時代遅れだったかもしれないタイプライター(のようなもの)から打ち出されたことばに肉を与えることを生業にしてきた俳優が、今度はことばを紡ぐ側に立場を置く。そして主題はタイプライター、すなわち電気信号の液晶モニターではなく、ダイレクトに「繊維質にタイプの文字を押し込」む、やや大げさに表現すれば、ことばに肉を与える、あるいはこう言った方がより正確なのかもしれない、ことばを肉に与える。

クレオパトラの鼻が……」とのB.パスカルの嘆きよろしく、『プライベート・ライアン』も『フォレスト・ガンプ』もない世界だってあり得た、一連の作品群のいずこにもトム・ハンクスを持たない映画史だってあり得た、あるいは映画なき世界史だってあり得た、しかし、いかようにもあり得た枝分かれの中で、タイプライターのことばを通じて「変え」られた「世界」の中で、各々の「意識の流れ」のその中で、現に紛れもなくスクリーンのトム・ハンクスはコモンズとして共有されている。

 世界は受肉を分かち合う、それはちょうどこの作品集の登場人物たち――ある者はアラビア・ルーツ、またある者の祖先ははるか昔に北大西洋を横断して新大陸に渡った、またある者はブルガリア共産主義を逃れたギリシャ経由の密入国者――が、un-commonな傷をそれぞれに抱えながら、commonな世界を祝福するように。