の・ようなもの

 

 

 料理研究家が教えるのは、家庭料理である。彼女・彼たちが必要とされるのは、私たちの暮らしや食べたいものがどんどん変わり続けているからだ。人気となる料理研究家にはその時代に登場する必然がある。

 また、彼女・彼たちの背後に人々は幸せな食卓を夢みる。しかし、現実はそう単純ではない。人気者の彼女・彼たちそれぞれの個人史を知ることは、その人自身を知るだけにとどまらず、背後にいる同時代の女性たちが何に悩み、何を喜びとし、何を守ってきたのかうかがい知ることでもある。女性たちが中心になって支えてきた料理の世界に、21世紀に入ると男性の台頭が目立つようになる。中心にいるのは母が料理研究家だった二世である。彼らの登場は何を意味するのか。その事実も時代を象徴している。

 料理研究家を語ることは、時代を語ることである。彼女・彼たちが象徴している家庭の世界は、社会とは一見関係なように思われるかもしれないが、家庭の現実も理想も時代の価値観とリンクしており、食卓にのぼるものは社会を反映する。それゆえ、本書は料理研究家の歴史であると同時に、暮らしの変化を描き出す現代史でもある。 

 

 いかにも興味深いデータが紹介される。NHK 国民生活時間調査によれば、1960年の女性の平日の家事時間は4時間26分、1965年は4時間14分、そして1970年には4時間37分、4時間切りを達成するには1995年を待たねばならない。巷間語られるところでは、洗濯機などの家電によってその負担は軽減されたなどと喧伝されるにもかかわらず、である。

「つまり、ラクになった分だけ、主婦たちは新しい仕事をふやしたのである。その一つが、手のかかる料理である」。

 そして女性の現実は「ラク」ですらなく、家事負担を前提に、パートタイマーによる労働市場参入を求められる始末。そんな時代に、「100おいしいことを目指さなくてもいいのよ。80おいしければいいじゃない」と時短料理を引っ提げて舞い降りたジャンヌダルク、わきまえない女がいた。小林カツ代である。

 

 そして時は流れ1990年代、「主婦である以前に自分自身であること」を求める女性たちが料理研究家に期するものはもはや、日常に役立つ知恵の伝授だけではなかった。自己実現という名のストーリー・マーケティングの病理、今や料理研究家は「専業主婦の『夢』演じる教祖」でなければならない。かくして栗原はるみが「カリスマ」の玉座に君臨する必然は説明される。

 

 小林は言った、「食の基本はやはり家の料理です。でも、必ずしも母親が作らなくてはいけない、ということはありません」と。しかし現実にはその労働は今なお主に女性が担う。専ら女性史として本書が編まれなければならなかったというその事実は、ジェンダーの壁が克服されない現代史の裏返しに他ならない。

栗原はるみ小林カツ代と最も違うのは、その立ち位置である。小林カツ代は、……主婦と言われることを嫌がった。自分は『家庭料理のプロ』なのだと言い続けた。しかし、栗原は自分の存在が社会現象となった1990年代、自らを主婦だと言い続けた」。もちろんそこにはある種のフェイクが潜む、「栗原自身は家族の関係を守る要として、主婦の役割を任じているのであり、旧来の主婦と違い、自らがスポットライトを浴び、意識しなければ家族と過ごす時間も持てない多忙の中にある」のだから。

 そんなことは知っている、それでもなお、栗原はるみは「カリスマ主婦」であり続けねばならない、なぜならそこにニーズがあるから。

「今も若い女性は専業主婦になりたがる。それは、夫や子供に尽くす旧来の生き方を全うしたいからではない。……若い女性が憧れているのは、主婦ではなく奥さまというセレブリティであり、それはつまりお姫様願望なのである。/彼女たちが働くことを忌避して現実逃避したがるのは、女性の社会的地位の低さやチャンスの少なさを反映している。現実が厳しいからこそ、夢をみるのである」。

 本書は、鮮やかに女性をめぐる「現実」をえぐり出して見せる。

 

 といって、読後に苦味ばかりが残るかといえば、必ずしもそうではない。

「小林が料理研究家人生を通じて、おいしい、簡単を訴えたのは、人生を豊かにする具体的な技術として料理を考え続けたからかもしれない」。

 本書内、一際印象的な引用がある。

「手間なんかかけなくても、“大事に”作ってほしい」。

 発言の主はケンタロウ、カツ代の子息。laborからworkへ、革命家によって引かれた光の道筋は、確かに引き継がれている。