月が綺麗ですね

 

 

 月が綺麗ですね。

 嘘か真か、あるときI love youの訳し方を問われて漱石が答えたそうな。

 

 月の光が美しい。こんな夜、かぐわしい微風が木々の梢にやさしくキスし、木の葉もざわめきひとつ立てぬ、こんな夜。そう、きっと、こんな夜だったに違いない。トロイラスがただ一人、トロイの城壁に立ち尽くし、はるかに望むギリシャ軍の陣営の、天幕のひとつに眠るクレシダのことを恋い焦がれて、その切ない胸の思いを、溜息に託して送った夜は。

The moon shines bright. In such a night as this,

When the sweet wind did gently kiss the trees

And the did make no noise, in such a night

Troilus, methinks, mounted the Trojan walls

And sighed his soul toward the Grecian tents

Where Cressid lay that night

(第5幕第1場)

 

 英文学の王に対してたかだか門外漢の一読者がインプレッションを連ねたところで何になろうか。

 本書巻末に付された訳者による解題にその念を改めて強くする。

 本編について論じることなど何もない、ただし、この解題の見事さならば語れる、だからその話だけをする。

シェイクスピア劇にはほぼ例外なく、作品全体のストーリーや人物配置を借用した原作があるということは、今ではほとんど周知の事実と考えていいだろう」との書き出しにはじまるこの分析、単にその元ネタを暴くに終わるならば、ネットですら用は足りる。『イル・ペコローネ』、『ジェスタ・ロマノールム』、このくらいの情報はWikipediaにすら掲載されている。

 しかしここからがこの解題の真骨頂。『ヴェニスの商人』においては、「シャイロックには娘がいるが、父親を裏切ってキリスト教徒の若者と駆け落ちする――ばかりか、その時、父親の大事な財産を持ち出し、さらにはキリスト教に改宗までしてしまう。けれどもこの話は、今まで挙げた二つの作品にはまったく見当たらない」。そして筆者は第三のソースとして、同時代の劇作家クリストファー・マーロウによる『マルタ島ユダヤ人』を指摘する。さりとてそれは単にサンプリングに留まらない。「当時の演劇界の情況をかあめて考えあわせてみる時、そもそもこの『ヴェニスの商人』という劇を書こうと思い立った、動機そのものに直接かかわっていると考えざるを得ない」。

 ここで訳者が指摘する両作最大の相違点は、名脇役シャイロックのモチーフと考えられる『マルタ』における「圧倒的な主役」としてのバラハスの存在である。これはメインをサブに配置転換させた、という以上の意味を持つ、と氏は力説する。「この推移が結果的に、作品全体を支えるヴィジョンの複眼化、立体視化を生み出しているという点である。つまり、すべてが主役の単一の視点によって統括されるのではなく、複数の人物がそれぞれに作者(ひいては観客)の共感を誘引し、それぞれ多様な視点を打ち出すことを通じて、作品全体が、複眼的なパースペクティヴを構成するという結果がもたらされている」。

 さらに論は、その対照をもたらした原点への推察にすら至る。

 つまり、『マルタ』においてバラハスを演じたのは、劇団所有者の娘婿。絶対的な支配者である父の指揮の下、絶対的な主役である子が舞台を制する。その図式が人物造形にそのまま投影された。そのために誂えられるキャラ立ちは、絶対的なヒールとしてのユダヤステレオタイプをさらにカリカチュアしたアンチ・ヒーロー。モブをモブとして切り捨てていくほどに、ヴィランの極悪非道はかえって映える。

 対して『ヴェニス』の一座は、「もっとはるかに民主的というか、むしろ中世のギルドの伝統を色濃く受け継いだ、共同体的な組織を取っていた」。さながら今日で云うところの当て書き、強い結束の中で、主役に限らず、近しき顔ぶれのそれぞれに見合ったハイライトが用意される、結果として、戯曲に「パースペクティヴ」がもたらされた。濃密な関係性にあって、演じ手を良く知るがゆえにこそ、そのパーソナリティを反映しただろうキャラクターが生み出された。シャイロックといえども単に非道の記号ではあれず、例えば我が娘のこととなれば煩悶を重ねる、それはあたかも血の通った人間であるかのごとく。解題中、釘を刺される、シャイロックは「商人merchant」ではない、高利貸に過ぎない、にもかかわらず、この存在感である。

 わずかなページ数をもって、シェイクスピアシェイクスピアたる所以にまで迫るこの白眉の論評が、翻訳が多々遍く中で、圧倒的に他を隔てる。