ストーリーが世界を滅ぼす

 

 力道山、木村〔政彦〕とシャープ兄弟の闘いから始まったテレビとプロレスの歴史は、まもなく70年を迎える。その中で唯一、テレビ局が設立を主導した団体がある。ジャイアント馬場が昭和47197210月に旗揚げした全日本プロレスだ。

 全日本プロレスは、日本プロレスを退団した馬場を日本テレビが全面バックアップして設立した団体だった。同局はこの年の107日から毎週土曜夜8時に「全日本プロレス中継」をスタートさせた。「全日本プロレス」は日本テレビの支援がなければ生まれてはいない。この事実こそがプロレスがテレビの主役だった時代を意味している。

 そして、「全日本プロレス中継」の立ち上げ、すなわち「全日本プロレス」の設立に尽力し汗を流したテレビマンがいた。

 その男こそプロデューサーを務めた原章だった。(中略)

 わたしは、原章を中心とした、テレビの歴史を開けたプロレス中継にかけたテレビマンたちの記録を残すべく取材を始めた。同時に「全日本プロレス中継」の278か月に及ぶ初回から最終回まで全ての放送回を新聞のテレビ欄、専門誌などで調べ、印象的な試合の放送時の事実を掘り下げることに挑んだ。(中略)

 昭和381963)年1215日に39歳で急逝した力道山。亡くなる年に原が間近で見た力道山の凄さ。さらにフリッツ・フォン・エリックの「鉄の爪」を逃さないためにスポーツ中継のタブーを破った事実……。また、ライバル局に勝つべく入場テーマソングにかけたディレクターの情熱、さらには平成となり深夜放送時代に賛否両論を巻き起こした「プロレスニュース」の真実。プロレスの語り部としてリングにのめり込んだアナウンサーたちの葛藤とプロ魂……など様々な角度から「全日本プロレス中継」の歴史に迫りたいと考えている。

 

 プロレスである。インサイダーである。ましてや当人が「私は、プロレスを見た時、これはアメリカ版の歌舞伎だと思いました」と公然と言い切ってみせる。

 となれば一般に、八百長なのか、ガチなのか、という例の不毛なやり取りに改めての決着を与えてしまうような暴露本の類か、と期待を寄せる向きもあろう。もしくは逆に、今さらそれかよ、との失望のリアクションが上がろうことも容易に想像がつく。

 しかし本書のメイン・イベンターである原章は、そもそもからしてそのようなリングを想定すらしていない。彼は言う。「リアルな凄さがプロレスにはあるんですね。鍛え上げられた肉体と力。これは本物なんです。この強さがなければ、試合は成り立たない。フェイクじゃできません。どれほどのトレーニングを彼らが自らに課し、リングで表現するためにどういう勉強をしているのか、プロレスを理解していない人にはそこを分かってもらえないですね」。

 テレビ局のディレクターとして、プロデューサーとして、彼にとっては、その「リアルな凄さ」をいかにしてテレビ越しに伝えるか、それだけがすべてだった。

 

 本書の表題には、相応の論拠がある。1953年、復興の道半ば、日本テレビを立ち上げた正力松太郎は考えた。「敗戦で傷ついたこの国で、テレビという新しい娯楽こそが日本人の心の豊かさを取り戻すものになると信じた。そのためにはテレビそのものを広くPRする必要があった。そして、浮かんだアイデアが『街頭テレビ』だった」。わけても大正力がキラーコンテンツとして目をつけたのが、プロレスだった。街中に突如として現れた受信機に映し出されたスペクタクル・ショーに果たして誰しもが熱狂した。体躯に勝る異国のレスラーに空手チョップをもって立ち向かう力道山の姿に誰しもが自身を重ねた、日本を重ねた。

 そのミームを引き継ぐ原にとって、「テレビはマス(大衆)を相手にするメディアですから、マスに受け入れられなければいけないんです。だから(中略)『10人の視聴者がいれば、その全ての人たちが見たい映像を放送しなければならない』」。

 原にしてみれば「プロレスがあってのテレビ中継なんです。テレビがプロレスを作るわけじゃない」。テレビマンとしての彼に課せられたミッションは、「10人の視聴者がいれば、その全ての人たちが見たい映像を」作り出すことだった。そのために彼は時に禁じ手を犯した。

 当時の「プロレス中継の基本は、画面に映る選手の立ち位置が変わらないことです」。落語と同じくカミシモを無闇に切り替えてはならない、なぜならば「視聴者は右と左でどっちの選手なのか分からなくな」ってしまうから。しかし原は、この「基本中の基本のスイッチング」をあえて破る、それはひとえに「10人の視聴者がいれば、その全ての人たちが見たい映像を放送」するために。

 196612月の日本武道館ジャイアント馬場が対するは初来日のフリッツ・フォン・エリック、「試合の焦点は、『鉄の爪』と呼ばれるエリックの必殺技『アイアンクロー』が馬場の顔面を捕らえる攻防だった」。左は左、右は右の固定アングルでは、カメラに背を向けられてしまえば、肝心の「鉄の爪」を逃しかねない。旧来の基本文法よりも、視聴者の欲しがる絵を優先する、そして原は見事にその要求に応えてみせた。7回にわたり繰り出された「鉄の爪」は3台のカメラによりすべて遺漏なく捕捉され、そして電波に載せられた。

 

 視覚メディアとして「リアルな凄さ」をテレビ画面で伝える。

 そう、本来はそれだけでよかったはずなのである。ドラマにおいて脚本や演出がどうのこうのという以前に、そこらの街中でお目にかかれるはずもないような美男美女がフレームに収まってさえいれば十二分であるように、デカい、強い、怖い、痛い、そんなインスタ的、ティックトック的脊髄反射的情報が映ってさえいれば、プロレス中継として視聴者ニーズの「最大公約数」は満たせているはずだった。眼前の光景を当意即妙に言語化していく、プロレス実況に求められるそのスキルをもって徳光和夫古舘伊知郎福澤朗らはアナウンサー界のスターダムを駆け上がっていった。彼らが伝えるそのことばだけで「最大公約数」には達しているはずだった。

 ところが、いつしかプロレス中継はそれ以上の何かを追いかけて、そして自壊していく。その自縄自縛のモンスターの名をストーリーという。ザッピングでは捕まえられるはずもない因縁や過去の対戦にフォーカスを強めれば、「10人の視聴者」の大半は脱落せざるを得ない。一週間見逃しただけで脈絡が繋がらなくなる、そんな置いてけぼりが日常化していく。プロレスだけはガチの東スポを世の中はいちいちフォローしてくれない。「どうしても僕らは例えば同じ打撃技ならそれは『エルボー』なのか『エルボースマッシュ』なのか『パンチ』なのかとか細かいことを考える」、こんな用語の使い分けにかつての「10人の視聴者」は気にも留めなかっただろう。かくしてハードルがすっかり上がってしまったライト層には、肉体が持つ「リアルな凄さ」も「受けのスポーツ」としての魅力も訴求しようがない。せいぜいが「ジャストミーーート」を馬鹿の一つ覚えするくらいが関の山。プロレス中継はもはや「10人の視聴者がいれば、その全ての人たちが見たい映像を放送しなければならない」というこの鉄則を満たすことができなくなった。

 1994年の改編をもって、日本テレビに設けられた録画放送枠はわずかに30分、それも週一の深夜帯、となった。これでは60分一本勝負すらも収まらない。この変更を受けて、『週刊プロレス』は「もうテレビは当てにできない」と喝破した。時の編集長、ターザン山本は語る。

30分枠になってテレビにおけるプロレスは終わりました。それは一般大衆を相手にする時代の終わりでもあり、要は完全にマニアが主役になったんです。プロレスはテレビで見るものじゃなくてライブ、会場で体感するしかないジャンルに完全に昇華したんです。同時にそれはプロレスを伝える側もテレビから僕らの週プロへ主役が交代したんです」。

 そして「マニア」は、『週プロ』すらも離れて、それぞれに自らのためだけのストーリーを紡ぎはじめる。紙すら離れて、各々の神を奉じはじめる。

 箱庭の楽しさに、たかが「リアルな凄さ」は決して勝てない、たかが他人は決して勝てない。

 

 いみじくも、「テレビはプロレスから始まった」、そして「10人の視聴者がいれば、その全ての人たちが見たい映像を放送しなければならない」、このテーゼを果たせなくなったときに、テレビはその使命を終えた。タコツボ化、ファンダム化した世界の中で、「最大公約数」をシェアする「10人の視聴者」が消えて、そうしてテレビはプロレスとともに終わった。

 

 

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