世界には10万種類を超える書体がある。たとえばTimes New Roman、Helvetica、Calibli、Gill Sans、Frutiger、Palatinoといった、よく知られたもの6種類ぐらいではだめなのだろうか。16世紀前半のパリで活躍した活字彫刻師、クロード・ガラモンの名を冠した古典書体のGaramondもある。ガラモンは、それまでのドイツの古めかしく重苦しい活字を吹き飛ばすような、非常に読みやすいオールド・ローマン体をつくった。
書体は560年にも及ぶ長い歴史をもつ。それならば、1990年代にコンピューターでVerdanaやGeorgiaを制作したマシュー・カーターは、AやBの形にどんな新しいことができたというのだろう。カーターの友人がデザインし、バラク・オバマのアメリカ大統領就任の陰の立役者となったGothamはどのようにして生まれたのだろう。書体の一体何が大統領らしく、アメリカらしく、あるいはイギリス、フランス、ドイツ、スイス、そしてユダヤらしくするのだろうか。
門外漢には理解しがたいこうした謎に迫ろうというのが、この本の目的である。
まず切り込み隊長は、このビフォー・アフターから。
お気づきだろうか。イケアが過去50年にもわたって用い続けてきた書体が、FuturaからVerdanaへと一新されたのである。利点は何と言っても、当時のVerdanaが数少ない「ウェブセーフフォント」のひとつだったこと、言い換えれば、それはすなわち、Verdanaが「もはや書体であることを意識させないぐらい当たり前の存在」だったことを指す。フォントが変わった、ただそれだけのことのはずだった。ところが、ブランドに心酔する信者たちはたちまち反応し激怒に駆られた、この変更をもってイケアはそれだけありふれた存在への堕落を余儀なくされたのだ、と。かくしてここに、一般市民の主導による、異例の「フォント戦争」が巻き起こる。
ありふれた、ということでいえば、Helveticaも外せない。
ひとりの書体デザイナーが、ある日思い立って、チャイナ・フリーならぬヘルベチカ・フリーをニューヨークの街で実践したらどうなるだろう、とシミュレートしてみた。服を選ぶところから一日ははじまる、とここでいきなりの洗礼が。洗濯表示は多くの場合Helvetica、アウト。朝食のヨーグルト、アウト。新聞、アウト。テレビのリモコン、アウト。地下鉄、アウト。インターネット、アウト。ランチのメニュー、アウト。時刻表、アウト。ドル札、アウト。クレジット・カード、アウト――。
あるいは私を急性識字障害へと追いやることでおなじみのFrakturの場合。
読みづらさに頭を悩ませたのは、古今東西みな同じ、西欧諸国で軒並み敬遠されゆく
中で、唯一固執を示したのがドイツだった。第三帝国に入って、そのこじらせはさらなるエスカレートを遂げる。
「真のドイツ人だと自ら感じ、真のドイツ人として思考し、真のドイツ人として話し、真のドイツ人たれ。使う文字においても」。
ところが1941年、唐突に手のひらを返し、「ユダヤ体」として一斉に使用が禁じられた。だがこの敵性書体認定には、分かりやすさという以上の、極めてシビアな現実が作用していた。占領こそしてはみたものの、その地にはブラックレターの活字が圧倒的に不足していたのだ。かくして彼らは自らの長い伝統と訣別し、ローマン体のくびきを甘んじて受け入れた。
情報伝達の礎としてのフォントすら揃えられない、その時点で彼らの敗残は半ば約束されていた。
「だけど書体は目立ちすぎてもいけない」。
誰しもが見覚えのあるだろう、雑誌『Rolling Stone』の、あまりに広く知られたタイトル・フォント。
「Rはギターの音の伸びのように曲線を描き、その先端はカールしながらoの下を超えてlまで伸びている。gの下のボウルはニヤリと笑いながら、Sと組み合わさっている」。
しかし、この題字は1967年の創刊からのオリジナルではなかった。
そのデザイナーが、リニューアルの依頼を打診されたのは10周年に際してのこと。それから実に4年、1981年1月に満を持して店頭に並んだ雑誌にあって、その刷新は「だけど誰も気づかなかった」。