ファウスト

 

 何を思ったか、その男、西村耕太郎は熱海の社員旅行に先立って立ち寄った書店で、一冊の古典文学に吸い寄せられて買い求める。ゲーテファウスト』。

 万学に通じるこの英雄といえども、老境に至ってただひとつ、未だ知らざるものがあった、すなわち、現世の幸福。

 対して石川達三の主人公はなるほど、博覧強記には程遠い。とはいえ保険会社の次長、取締役会に上り詰めぬまま55歳の定年を迎える公算こそ大きいものの、社会的なステータスとしてはそう悪いものではない。当然俸給もそこそこ受け取ってはいる、ただし妻に財布を握られて、好きに使える金などたかが知れている。人生70年と謳われたその時代、高血圧に蝕まれる身体には死の影がどうにも否みがたく付きまとう。

 孤独な大学者ほどの渇望はない、ただし西村にとて彼なりに満たされぬところはある。果たして彼にとってのメフィストフェレスがささやきかける。

「もしも一日のうち一時間ずつでも行方不明になることが出来たら、ずいぶん楽しいことが有る筈です。/……行方不明というのは、自由ということです。現在の文明社会に暮している人間は、あらゆる自由を奪われています。政治の拘束、経済の束縛、法律と道徳と習慣と義務と、さらんい妻子に対する愛情に縛られ、身動きもならない有様です。/……そういう窮屈な人生のなかで、たった一つだけ、法律にも触れず、大して金もかからず、しかもやろうと思えば直ちに得られるところの自由は、自分が行方不明になることです。自分が自分から脱出してどこかへ行ってしまうこと。それだけしか有りません」。

 そして間もなく、西村におけるマルガレーテ、ユカリが降臨する。

 

 この小市民版『ファウスト』、まずは物語の作りとして破格にうまい。

 とりわけ圧倒的なのは、西村とユカリとの間柄と相似形を描くように配される、実娘とその彼氏との関係性のコントラストである。

「行方不明」を望みつつもまるで踏み切れぬ父をあざ笑うかのように、すわ駆け落ちか、との置き手紙を残して、一人娘は数日の「行方不明」をあっさりと勝ち取っていく。ましてや相手は3歳年下の未成年の学生と来ている。後日、男を家に呼びつけて別れるように諭してはみるものの、ロジカルにたしなめられていなされる。生活力について言ってはみるも、愛しのユカリを囲うべく自身が算段できる金といえば、その学生バイトにも及ばない。脅迫に手を染めて大金をせしめる、その誘惑に駆られはするも、いざ実際に悪魔に魂を売り渡す度胸はない。うら若き乙女の肉体を欲する男が、ただし同じ年頃の自分の娘が求められるとなれば、どうにも我慢ならない。その矛盾を見抜くかのように、「良い年をした大人たちが、十八九の若い娘を誘惑して怪しげなホテルへ泊り込んだり、……そういう大人たちに比べて、僕たちの恋愛は格段にまじめだと僕は信じております」と堂々言い切られてしまえば、厳格な父親像はどこへやら、せいぜいがごまかしてその場をやり過ごすことしかできない。

 かくして西村の夢想する家父長制回帰願望は、見るも無残に砕け散る。

 

 だがしかし、この日本の卑屈な小市民版『ファウスト』は、技巧の粋にもかかわらず、やはり読むに耐え難い。奇しくもこの伝説上の人物が言う。

 

君方が時代の精神と呼んでいるものは、

つまるところは時代々々の影の映った

歴史家先生御自身の精神にすぎぬ。

そういう次第だから、時には目も当てられぬことにもなる。

一目見ただけで逃げ出したくなるくらいのものだ。

ファウスト 第一部』高橋義孝訳、新潮文庫p.48f.

 

 男根中心主義云々を唱えてみても、結局のところ、嫁さんには頭が上がらなくて――

 この態度に典型的に表れる、「時代の精神」を読み解こうとするその試みは、早々に座礁を余儀なくされる。妻に家庭を牛耳られていることを免罪符に自身の落ち度の許しを乞う、この浅はかな「時代の精神」は決して過去形の彼方へと葬り去られてなどいない。否むしろ、今なお繰り出され続けているその現在進行形性ゆえにこそ、本書の「逃げ出したくなる」つらさは、ほとんどとばっちりのように引き起こされる。

 しばしば公に見られるこの手のパフォーマンスが仮に表向きの演技ではないとして、彼らが女性配偶者に太刀打ちできないのだとすれば、それは偏に人格的な劣等性の結果に過ぎない。あたかも女尊男卑に屈するかのような自己定義を本気で信じる彼らは、その必然として、社会制度としての男尊女卑について目を向けるほどの知力すら持たない。仁徳に基づく王道統治のかなわぬ彼らにできることといえばせいぜいがホモ・ソーシャル間のパワー・ハラスメントくらいのもの、だが不幸にも、レクリエーションの場にさえもはびこるその非生産性の再生産回路は今日へと寸分たがわず引き継がれる、だからこそ、石川自身が託しただろう批評性をも凌駕して、本書は「目も当てられぬことになる」。

 一方で、なるほど確かに時代は変わった。本作が発表され、たちまち表題が流行語ともなったのは1956年のこと、そこから平均余命はざっと10年ほど伸びてはいる。それはおそらく磯野波平54歳が依然、一定のリアリティを確保できていただろう時代、翻って現在の54歳、1967年生まれといえば例えば織田裕二天海祐希の清原桑田世代。女性の年齢をクリスマス・ケーキになぞらえる風習などもはや死語と化して久しい。雇用における女性のロール・モデルも当時と比すれば劇的に転換した。もちろん、通貨のインフレーションも見逃すことはできない。

 しかし、それでもなお、本書は現代小説として読めてしまう。戦後まもなくに固有の「時代の精神」の表出が本書をいたたまれないものにしているわけではない、むしろ、半世紀をとうにまたいでなおも変わらざる「時代の精神」をもはや「時代の精神」とすら言えぬ仕方で改めて突きつけられるからこそ、しみったれた日本版ファウストの肖像にたまらなく歯がゆさを覚えずにいられない。