「もうやめましょう。大人になってください。あなた方の時代は終わったんです。民主主義の負けなんです」。
ブレグジット可決から間もなくのイギリスのとある介護施設にて、32歳の非常勤講師エリサベスが寄り添うはかつての隣人、ダニエル。100歳を回った彼は、今日もベッドで眠り続ける。親しくなったきっかけは、母が催したほんのささいないたずら心、作文の提出期限を翌日に控えた幼き娘に向けてささやきかける。
「話を作るのはどう? 質問をしたふりをするの。隣の人がしそうな返事を作文する」
皮肉にもそのことが老人の歓心を買う。散歩がてらのプライヴェート・レッスン、例えば彼の言うことには、彼女に必要なのはカレッジcollegeよりもコラージュcollage。
「コラージュというのはあらゆる規則を捨て去った教育機関のこと。そこでは大きさ、空間、時間、前景、背景みたいなものがすべて相対化される。その結果、自分の知っていると思っていたものがことごとく新たなもの、見知らぬものに生まれ変わる」。
その実践編、彼は「パガテル」なるゲームを提案する。「私がまず、最初の一行を言う。/……次に君が、その一行から思い浮かんだ物語を私に話す」。このゲームで「大事なのは、みんながもう決まっていると思っている物語をいじくることだからね」。
彼女が出したお題は戦争、そして放り込まれた登場人物は「銃を持った男」、続けて彼が加えたのは「樹木に変装した人」。彼女はすぐさま否定する、「この流れなら、例えば、銃を持ったもう一人の男とか言わないと」。
「戦争」というテーマに沿えば、彼女の指摘はある意味とても適切。既成の道具立てに従って「パガテル」を展開していけば、配置が織りなす自動演算に導かれるまま、必ずや過去の似姿をトレースするに違いない。敵か味方かで色分けされた排他主義の行き着く先にあったのは、例えばヒトラー、例えばポスト911、例えばEU離脱。これまでも、これからも、世界がそうあるように、「パガテル」も同様のクライマックスを迎えたに違いない。
道具立てが帰結を必然として導出するのならば、そもそもの道具立てから変えてしまえばいい。
かつてナチスに妹を奪われたらしい彼には、だからコラージュが必要だった、「あらゆる規則を捨て去」ることが必要だった、あえて「樹木に変装した人」を組み込むことでストーリー・ラインを「戦争」から脱臼させる、想像を超えて現実の中で「みんながもう決まっていると思っている物語をいじくる」ことが必要だった。
木の葉を隠すなら森に隠せ。
新しくもない、それどころか郷愁的ですらあるメッセージを埋没させるために設えられたこの小説そのものがコラージュを通じて構成される。ちぐはぐなパーツをばらまき貼り合わせ、時間軸にさえねじれを織り込む。
そして生じるだろう不条理な出来事。冒頭彼女は、どこへ旅するためでもなく、単に身分証明書としての必要からパスポートの更新を申請する。手続きの煩雑に消耗する彼女は、担当者と例えばこんな会話を交わす。
「もしもこれがテレビドラマなら、とエリサベスが言う。次に何が起こると思います?
テレビなんてほとんどがごみみたいなものですよ、と男が言う。私はボックスセット派です。
私が言っているのは、とエリサベスが言う。次のショットでは、あなたはカキにあたって死んでいる。そして私は逮捕されて、やってもいないことについて疑いを向けられている」。
シュールっていうんですか、こういうの。エリサベスも疲れる、そして読者も疲れる。ナンセンスのためのナンセンス、文字列のための文字列、小説の先例を見つけるに枚挙に暇なく、そして決まって何の達成も収めることがない。まさしくその限りにおいて、反ダニエル的、アンチ・コラージュ的。
ただしそれ以上に、本書は極めてクエンティン・タランティーノ的。
例えば『イングロリアス・バスターズ』、例えば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。サンプリングに次ぐサンプリング、映画という媒体固有の文脈を帯びたトリックスターの降臨によりバッド・エンディングを回避する。
コラージュにより引き起こされたスクリーン上の出来事を、筆者は小説へと、現実へと移し替え、そして他なる分岐を待望する。冗長に連ねられたこのテキストの中で、いずれにせよ、「大事なのは、みんながもう決まっていると思っている物語をいじくること」、今この世界に必要なのは、カレッジでもコラージュでもなく、あるいはカリッジcourage。