イエスタデイ・ワンスモア

 

 本書が探るのは、近代日本の歴史における主要な出来事や人々の意識を変えてきたイデオロギーの形成をうながす媒体として、またそのような事件や思想の隠喩として、犬が果たしてきた役割である。……

 この本は、犬――本物も想像上のものも含めて――の考察を通して人間と動物と社会構造との関係や、人がそれらのあいだの相互介入を描くのに使ってきた思想的様相を明らかにすることによって、普通の歴史家の視点とは異なる一瞥を近年の歴史にそそぐ。西洋の(のちには日本の)帝国主義を促進するためであったり、政治的・階級的統制を行うためであったり、国民や人種的アイデンティティを定義するためであったり、人々を戦争に動員するためであったり、あるいは消費者のステータスシンボルであったりと、さまざまなかたちで使われてきた犬を検証することは、その伴侶である私たちについて多くのことを教えてくれる。私たち自身をよりよく理解するもっとも優れた視点のひとつが、自分以外の他者である動物のことを真剣に見つめることで得られるのではないだろうか。

 

「社会ダーウィン主義者による人種的文化的優位の想定は、飼いならされたものと野生のもの、文明と野蛮との二項対立を強化し、それを植民地対非植民地の図式に結びつけた」。

 この「図式」、そのまま開国後の日本においても適用された。

 いわゆる「横浜絵」、つまり何もかもが物珍しい異邦人を扱ったそれら版画には、彼らに寄り添うようにしてしばしば犬が描かれた。「気性もよくおとなしくて静かな」、主人に忠実に従う「飼いならされたもの」に対置されるのは無論、「野生のもの」としての在来種。今となっては地域犬とでもカテゴライズされるかもしれない、だが当時にあっては特定の飼い主を持つでもなく、なわばりの中で餌づけされ、さりとて誰にしつけられることもないそれらオオカミ崩れは、間もなく狂犬病などの公衆衛生の御旗の下で排除されるべきターゲットとなる。対してcome hereに由来して「カメ」と呼ばれた前者は、万が一にも後者と取り違えて殺そうものなら何をねじ込まれるか分かったものではない、かくして飼い主同等の治外法権を振りかざしてこの世の春を謳歌する。

 

 居住区の西洋人をなぞるように、やがて日清日露戦争のたまさかの成功をもって帝国主義の味を覚えたこの国において、かつて駆除されるべき対象であった「野生のもの」が、「純潔と中世と勇敢の象徴とされ」誉れある「日本」犬へと変貌を遂げる。

 そのアイコンが忠犬ハチ公だった。奇しくもその名が広く知れ渡ったのは1932年のこと、一節には餌を求めて単にルーティーン化していただけ、今となっては真相は藪の中、しかしファシズムの道を邁進する世間がそんな指摘に見向きするはずもなかった、一匹の柴犬によって示されたこの滅私奉公の精神は、時に楠木正成乃木希典にすら勝る、この上なきゆるふわ教化政策として子どもたちへと刷り込まれていった。

 

 それと時を同じくして、キッズを夢中にさせたのが田河水泡のらくろ』だった。

 確かに史実をいえば、その作者の思想的傾向はむしろプロレタリア的であった。「天皇の軍隊を犬の集まりに擬する」不敬を理由に発行停止が命じられもした。

 しかしそれでもなお、「この犬はさまざまなへまをやらかしながらもつねに仲間の犬たちを裏切らず、『忠義の心を片時も忘るべからず』という連隊規則、すなわち軍人勅諭の教えからけっしてはずれることはなかった。……/犬たちは失敗をくりかえすいろいろな犬種の集合ではあっても、日本の軍事力、勇敢さ、優越を例証しており、それに比べて他の動物は進歩が遅れ、弱く、頭が悪いとさえ描かれている。/……大衆文化は……積極的に子どもに犬を好きにさせ、同時にその親密さを利用して軍人になることへの興味を搔きたて、軍国主義を支える価値観を醸成したのである」。

 

 日本精神の体現者としての役割を付された彼らには、やがて単に洗脳装置という以上の機能が期されるようになる。つまりは軍用犬としての。

 もっとも一般家庭で広く飼われた小型犬をいくらかき集めたところで、実戦投入に資するはずもなかった。そもそもが人間ですらも食糧難、物資難のその時代、だとすれば用途は――。「軍用犬として献納するにしろ、単に皮と肉と体液を提供するために犬を犠牲にするにしろ、この運動に共通してひんぱんに使われた表現は『犬死に』である。……本土決戦に備えて政府や軍部の指導者たちは、人々に日本の国土を守るために忠誠心を持って戦うことが、死ぬこと自体は避けられないにしても、『犬死に』を避ける道であると諭した。こうして犬は現実にもレトリックの上でも、人が自分の命を捧げる模範として動員されたのである」。

 

 そして歴史は繰り返す、しかもその強度を果てしなく強めたかたちで。

アメリカ文化の影響がこの国を覆うにいたって、犬を経済的な安定と文化的な生活のシンボルと見なす見方は強化されていった。海外に駐留するアメリカ合州国の軍人とその家族が持ち込んだアメリカ国内の風習が、アメリカの家庭生活に犬は欠かせないという印象を強めたのだ」。

 頂点は『名犬ラッシー』において観察される。このテレビ番組は、「誠実、勤勉、家族という冷戦期のアメリカ的価値観を日本の視聴者に紹介しただけでなく、コリーを日本でもっとも人気のある犬種のひとつにのしあげ」た。

 以降も『南極物語』あり、『フランダースの犬』あり、名脇役に犬を配した作品は数知れず、CMに目を移してもアイフルソフトバンク、動物バラエティも花形といえばその筆頭は犬である。

 戦後消費社会、ポップの申し子として、テレビと犬というゆるふわ教化装置が相乗効果を発揮するのはもはや文化的必然だった。「飼いならされた」犬を前に人々もまた「飼いならされた」。

「多くのとくに小型血統犬、または大型犬でさえも多くの時間を屋内で過ごし、かなりの犬が人間にコントロールされた環境以外では生きていけなくなってしまった。……この国に限らず現代の多くの犬は、自然と文化の境界を永遠に渡りきってしまい、完全に飼いならされて文明化してしまったように見える。ますます多くの人間がそうなってしまったように、多くの犬も食べすぎて一日じゅう家のなかにいて運動不足であるために、肥満しストレスに見舞われている。……小型犬は、19世紀の街路や野原を徘徊していた、この国に昔からいたしぶとく小ずるい犬とは似ても似つかない。それに今の小型犬は1930年代と40年代の国家と国民を代表していた『日本犬』や軍用犬とも、身体的にも比喩的にもまったく似ていない。その代わり皮肉なことに、今日の小さな室内犬は、この本が最初にあつかった1世紀半前の日本のシンボルとして見られていた、甘やかされたひ弱な愛玩犬、狆とそっくりなのである」。

 

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