ラストナイト・イン・サヴィル・ロウ

 

 本文に入る前に、これがなんの本で、なんの本じゃないのかを説明しておく必要があるだろう。

 なんの本かというといたって簡単な話で、英国男性のファッションと、それが第2次世界大戦以降どう変化してきたか、そしてその変かの理由はなんなのか。じゃあなんの本じゃないのかというと、というかとくにページを割いていないのは、陳腐さを過度にアピールしたキャンプなファッションだ。……

 服装が存在するのは、ファッションを超えた別の次元だ。それ自体は些末でも、決して無意味なものではない。人の好みのどんな分野にも増して、それは自己の表明なのだ――自己イメージ、すなわち自分をどう見て、他人からどう見られたがっているかを、入り組んだかたちで表現したもの。どんな服装も人が自分自身に抱く夢をあらわしているし、それはさえない服装と、華美な服装の両方に当てはまる。

 そのため革新的な服装が登場するのは、人々の自己認識に大きな変動が起こった時期(以下、太字はすべて原文に従う)に限られる。そして第2次世界大戦以降、男性の服装のなにが変わり、なにが変わっていないのかを正確にたどっていけば、英国人男性全般のなにが変わり、なにが変わっていないのかを側面から描き出せるんじゃないかというのがぼくの考えだ。

 

 原著の表題は、Today There Are No Gentremen、その出版は1971年のこと。

 記述の中心は戦後四半世紀のイギリス、わけてもフォーカスは専ら1960年代にあてられる。この短期間に、テディ、モッズ、ロッカーズ、ヒッピーなど英国発のトレンドはめくるめく入れ替わる。そう聞けば誰しもが本書にスウィンギング・ロンドンの熱狂を重ねるに違いない。主要なアイコンといえば例えばビートルズでありストーンズ、女性におけるツィッギー、マリー・クヮントのミニスカート旋風のように、彼らがグローバルに発信した流行を追うことに主眼は置かれるのだろう、と。

 しかし本書はそのような相場の予想を巧みに外していく。今も昔も変わらない、ブレイクとはすなわちバカに見つかること、社会現象など所詮、落日の兆候をあらわすに過ぎない。筆者にとっての関心事はその前夜、人口への膾炙にはるか先駆けた、往々にしてその名を残すことすらなく、ただし時にジョンとポールさえも従える、いわばファースト・ユーザーたちの動静にこそある。

 

 ファッションにせよ、全般的な社会風土にせよ、飛躍的な進歩にまつわる公理のひとつが、A地点からB地点へと直接移動するのはほぼ不可能だということだ。もし突破口を切り開くとしたら、まずは過激さが必要になる。……まず前衛部隊が闇雲にジャンプし、そのままC地点に降り立つことによってはじめて達成されるのだ。

 いったんそこまで飛び出してしまうと、見直しが可能になる。C地点に行き着いた人々の一部は、そのままD地点を目指してさらに進みつづけるが、大多数はひとまず満足するか、くたびれるかして、少し逆もどりする公算が大きい。そのいっぽうで、そもそもジャンプする度胸がなかった人々の多くも、だいじょうぶだとわかって前に進みはじめる。そしてけっきょくB地点あたりで、その両方が合流するのだ。

 

 このテキストが追うのは専ら「前衛部隊」、そして同時に興味を惹きつけるのは実のところ、まだジェントルマンがいた時代としての「A地点」をめぐる描写であったりもする。

 今日でもまだ続いているだろうパーティーや晩餐会の招待状、「ブラックタイ着用」だの「平服でお越しください」だのと一行のレターを添えるだけで、だいたい似たり寄ったりの服装が雁首を揃えることとなる。モノトーンとアースカラーで覆われたそののっぺりとした光景に、ドレスコードなどというこまっしゃくれた婉曲話法をつい使ってみたくなったりもする。

 しかし本書のロジックに従えば、それは単に「家父長的な原理」の表象に過ぎない。いみじくもパターンpatternの語源はラテン語pater、つまり父。ボー・ブランメルの登場をもって19世紀初頭に「A地点」が規定されて以降の約150年間、ひたすら「若者は、父親をコピーしていたのである。逆らうこともなければ、自分たちで新たな基準を打ち出すこともない。道徳面でも趣味の面でも、彼らは可能な限り父親の価値観を遵守した。これは1939年までの彼らが、紳士になろうとしていたことを意味した」。

 今日、サヴィル・ロウといえば、ビスポークの聖地としての名声を誇る。精密な採寸、裁断、縫製、アイロンワークに基づいて、身体のラインをなぞりつつも無駄なテンションがかからない、背広の語源を裏切らぬスーツが伝統的に作られ続けていたのだろう、そんなジェームズ・ボンドの夢を見る。

 しかし本書による限り、そのようなシルエットをスーツが獲得するにはピエール・カルダンの到来を待たねばならない。歴史的にサヴィル・ロウが提供していたのはあくまで「ユニフォーム」に過ぎない。「戦前の息子たちは自動的に父親と同じテーラーに通っていた……さんざんフィッティングや調整に時間を取られ、さんざん卑屈な態度を取らされたあげくにできあがったものは? 変わり映えのしない灰色のスーツだった」。これがかつて綿織物と毛織物で世界を制した、太陽の沈まぬ帝国の成れの果て。

 そんな時代にトレンドセッターとして辛うじてのマイナー・チェンジを加え得た存在といえば、朽ちゆく権威主義の最上位、すなわち王室、典型的にはウィンザー卿。葬儀の席に宝石はタブーとされたその時代、女王エリザベスはチャーチルの死に際して真珠を首に巻き、以後、エチケットとして定着する。哀悼の涙を模した形状をもってよしとする、いかにも稚拙で浅はかな連想ゲームを超えない。

 たかが人間の決め事、すべてマナーなど怠惰な輩の先例踏襲、前に倣えという以上のいかなる含意も持ち得ない。

 

 スーツがジェントルマンを作り、ジェントルマンがスーツを作る。そんな凋落国家から、そしてジェントルマンがいなくなった、何はともあれ「B地点」には飛び立った。

「ユニフォーム」を脱ぎ捨てた彼らが代わってまとうようになったのは差別化だった。もっともそれは個性とやらの表出を意味しない。「“わたしは成功者です、あるいはそうなれます”という声明になっていたのだ」。

 父と同じテーラーで同じスーツをあつらえ、父と同じバーバーで同じ短髪に仕上げる。戦争の終結から配給制の混乱を抜けて、無限ループのパターナリズムからあたかも解放されたかのような若者たちは、そうして自ら衣服を選ぶようになり、そのことでかえって否応なしに購買力のステータス・シンボルとしての衣服を誰の目にも明らかに露出させた。

 近代市民革命は、なるほど確かに、世襲的権威の持つ支配力をいくらかは弱体化させた、とりわけギロチンや絞首台の効能は悦ばしきばかりだった、ただしその実態といえば、ルール・メイキングの統治権限を特権的地位から経済力へとシフトさせることで、むしろ階級制度の存続を許したに過ぎないのかもしれない。それが本書の上梓以来、英国のみならず全世界を覆うだろう「B地点」の現在に他ならない。

 その中であえて次なる着地点を探す。仮に本書の延長線上にその未来が規定されるとするならば、「ストリートで、とくにだれからということもなくはじまる」。

 まさにそこにこそ、他の文化活動にも増して特徴的な、ファッションのファッションたる所以が浮かぶ、つまり、見れば分かる、という。

 かつて情報化社会はロングテールの多様性を夢に見た、しかし現状、ネットが促したらしいのはむしろ、ヘッドによる総取りだった。ファスト・ファッションのユニフォーム化によって、家族や地域の単位すらも超えた社会的均質性の「灰色」の波はすべてを拉し飲み込んでいく。

 だからこそ、せめてものチョイス可能なオルタナティヴとして、ステータス・シンボル性など知悉した上で、あえて自分の着たい服を着る、買いたい人から服を買う。

 たかが服装やヘアスタイルが個性とやらをあらわすことなどありえない、ただし、「灰色」でいないことには意味がある。

 年の瀬のショッピングモールにて、大学生と思しきカップルを見かける。手つなぎデート、キャメルカラーのオーバーオールのペアルック、アンダーのスウェットまで揃えている。微笑ましいほどに、九分九厘、別れるだろう。けれども、この日々を黒歴史だなんて絶対に言わせない、書き割りのモブキャラとは違う、そう、君たちには色がある。