せれながリアンに恋をしたのは、もう二十年も前のことだ。せれなは現在三十一歳、リアンは生きていれば六十二歳になる。
リアンのフルネームは、トーマス・リアン・ノートン、一九五一年生まれのイギリス人で「The Cups(ザ・カップス)」という四人組バンドのメインボーカルを務めていた。端正な顔立ちと卓越した歌唱力、類いまれなるメロディーセンスで多くの聴衆を魅了し、最も偉大なアーティストの一人としても名を残している。
リアンとは正式な知り合いではない。せれなは彼のようにミュージシャンではないし、ライブも一度も観に行ったことがない。後追い世代なので、恋に落ちてしまったとき彼はすでにこの世にはいなかったのだ。
リアンをフランス語で綴ってみる。
lienならばその意味は、紐やつながり、あるいは時に束縛を指す。
rienならば、つまりは英語でいうところのnothing。
なんとなく、メモしてみる。
「トーマス・リアン・ノートン」と試しに検索にかけてみると、真っ先にこの小説があたる。歴代の英米ヒットチャートにいくら目を凝らしても、The Cupsというバンドが現れることはない。
せれなが生まれたときには既に逝去しているのだから、やがて本書に描かれるだろうデート・シーンや海外ツアーへの同伴が想像上のものであることは確からしい。
しかし本書が難解なのは、ここからなのだ。とりあえず私が暮らしている世界にはトーマス・リアン・ノートンなるレジェンドが属していないことまでは相違ないとして、せれなが住まうパラレル・ワールドにおいてならばこの人物は本当に存在していたのか、『オニオン』なるアルバムは売り出されているのか、「せれな」という三人称をもって綴られるテキストのこの語り手はどこまでの信頼を寄せることができるのだろうか、ページを繰るにつれて浮上してくるだろうこうした疑問に答える術を読者は事実上与えられていない。
例えば1975年にThe Cupsが来日した際のインタビューによれば、リアンは「せれなも知っているカレーライス専門チェーン店」で「5辛」を頼み、「あまりの辛さに咳き込みライスだけ食べて帰った」。ここで想定されているだろう「チェーン店」が発足したのは、公式ホームページによる限り、1978年だという。さしあたっては三つの可能性が考えられる。一つ、この平行世界においては1975年段階で既に相当なシェアを獲得していた。一つ、単に筆者による立て付けがでたらめなだけ。そしてもう一つ、インタビューそのもの――つまりはリアンそのもの――がせれなの想像の中にしか存在しない。
彼女は「フライパンでハムと玉ねぎを炒め、三合分の白飯を投入し、塩コショウとケチャップで味付けをした。冷蔵庫を開けて卵を六個取り出したときに、二人分の夕食を作ろうとしている自分に気づ」く。二人分、つまり、せれなとリアン。リアンはもちろんこの世にはいない。リアンでとりあえずは上塗りしてみた「あいつ」という名の誰かがいる、のかもしれない。二人分にしても多いだろうというこの量を彼女ひとりで平らげる、のかもしれない。そもそもはじめから鍋を握ってすらいない、のかもしれない。
普通に考えれば、トータル・ページ数576の伝記本が小学校の図書室に収蔵されることはない、ましてや表紙では「リアンが上半身裸で毛皮のコートを羽織」っているとなれば。
「イギリスでのライブを無事に終えた三日後、せれなはロンドンにあるリアンの自宅にいた。久しぶりにゆっくりできることがうれしくて、昼過ぎまで二人でシーツにくるまっていた」。例えばこの記述は、作品内世界においてどこまでのファクトを含んでいるのだろうか。
「皆が信じているものを、自分の子どもも一緒に信じていられるように」
このフレーズが本書のテーマを集約する。
嘘をついているか、真実を語っているか、ではない、このリアルのラインを同期しようがない、それこそが「皆」の外側をさまようせれなの閉じ込められた問題なのだ。そしてそれはもしかしたら、ポスト・トゥルースの世界線で今、各人が直面させられている問題でもあるのかもしれない。