「そして毎日は続いてく」

 

 うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさき色のスカートを穿いているのでそう呼ばれているのだ。……

 例えば、アーケードの向こう側からむらさきのスカートの女の姿が見えただけで、人々の反応はわかりやすく四つに分かれる。一、知らんぷりをする者。二、さっと道を空ける者。三、良いことがあるかも、とガッツポーズをする者。四、反対に嘆き悲しむ者(むらさきのスカートの女を一日に二回見ると良いことがあり、三回見ると不幸になるというジンクスがある)。……

 むらさきのスカートの女はわたしの姉に似ていると思ったが、やっぱり違う。元フィギュアスケート選手のタレントにも似ていない。むらさきのスカートの女は、わたしの小学校時代の友達、めいちゃんに似ている。……ひょっとして、むらさきのスカートの女は、めいちゃん?……

 そんなわけない。……

 そういえば、ワイドショーのコメンテーターにもむらさきのスカートの女に似ている人がいる。……

 違う。思い出した。今度こそわかった。むらさきのスカートの女は前に住んでいた町のスーパーのレジの女の人に似ているんだった。……

 つまり、何が言いたいのかというと、わたしはもうずいぶん長いこと、むらさきのスカートの女と友達になりたいと思っている。

 

 この小説、なんとも評し難い。分かるような、分からないような「わたし」の素性をめぐる叙述トリックものと言えて言えないこともない、でも、そこをメインに据えているとは思えない。灰かぶりからプリンセスへ、『野ブタ。をプロデュース』のような話かと思いきやそうでもない。物語終盤の急展開、映画『アンダー・ユア・ベッド』来た、なんて連想をめぐらせたりもしたがそんなこともなく、さりとてあえて外してみたという古典的実験小説を狙っている様子もない。

 その伏線をここでこう活かしてきたのね、と胸高鳴る箇所もある。現れる誰しもが少なからずチートを重ね、互いに罪を時になすりつけ、時に被せられ、それでも日常はそれなりにつつがなく営まれていく、そんな悲喜劇としておそらくはまとめるべきなのだろう。

 でも、総じて見れば、あからさまに不自然に過ぎる設定の数々が、それ必要? とノイズとして絡み続け、そもそもの物語としての成立を妨げてしまっているようにしか思えない。それはナンセンスの雑味をもってオリジナリティを吹聴するコンテンポラリー・アートに果てしなく似て。

 この「むらさきのスカートの女」の見た目、「髪はパサパサのボサボサ、爪は真っ黒」で、シャンプーすらもろくにしている気配がない。喋らせてみれば声は震えるようにか細い。つまり、境遇によって作られたのか、社会性の遊離があからさまにアンタッチャブルのボーダーを振り切っているようにしか見えない。そもそもからして、街を行く誰の目にもそれと分かる異形の佇まい、「友達になりたい」、いや直感はささやくだろう、友達になれない、と。しかも同情や憐れみどころか、この「わたし」の行為の数々はほとんどストーカーのそれと来ている。もちろん、そんな暴走を誘発するチャームはとても読み取れない。代わる代わる知人、著名人の誰かに似ている、と想起がかすめては打ち消していく、それは取りも直さず誰にも別段似ていない、という以上の意味を持たない。「わたし」を惹きつけてやまないデジャヴュなどそこにない。

 彼女の特性のひとつに、「どんなに人通りの多い時間帯でも、決して物や人にぶつからない」というのがある。対人忌避の誇大表現か、ここまではいい。「あまりにも見事によけて歩くので、こちらからわざとぶつかりに行ってみる、なんておかしな人間が出てくるのもわかる気がする」。百歩譲って、ここも目をつぶろう。「じつはわたしが、そのおかしな人間のうちの一人だったりする。……普通に歩いていると見せかけて、数メートルほど手前から突如スピードを上げ、むらさきのスカートの女めがけて突っ込んだのだ。/……むらさきのスカートの女はするりんと身をかわし、わたしは勢いあまって肉屋のショーケースに体ごと激突、……店側から多額の修理代金を請求されるはめになった」。それ、どんな修羅の国? アクション・ゲームで主人公にとりあえず襲いかかってくるモブキャラか?

 通勤のバスの車内、彼女の肩に干からびた米粒がついていることに気づいた「わたし」は、無言でそっと手を伸ばし取り除こうとする。この時点で既に仮にもパートの同僚なのである。教えてやればよくないか、との不自然さなど序の口。「ご飯粒まであとわずかという距離までわたしの指先が近づいた時だった。バスが急カーブに差しかかり、車体が左右に大きく揺れた。その拍子に、わたしはご飯粒ではなくて、むらさきのスカートの女の鼻をつまんでしまった」。顔に手が行く程度ならまだしも、そんなことって、ある?

 

 まだPHSが用いられているような時代の物語、時給四桁が羨望の眼差しを受ける、そんな氷河期真っ只中をおそらくは描き出す。「むらさきのスカートの女」に執着する他ない、それほどまでに「わたし」もまた、孤独なのだろう。

 飢え乾き、それでもなお、コップの中の嵐は淡々となだらかに流れていく、たぶんそんな日常系を書きながら、アクロバティックなギミックがすべてを覆していく。

 たぶんこれを破綻とは言わない、表現主義とも違う、奇想天外でもない。適切なタグが見当たらない据わりの悪さ、異物感、とりあえず誰しもがヘンなものを覗いた、とは思うだろう。もしかしたら新ジャンルの胎動に立ち会っているのかもしれない。

 名作か、迷作か、そのジャッジメントはまた別の話。