時来たりなば

 

 亡くなったわたしの母は、若いころ、よくカードで一人占いをしていたが、そんなときにはいつも、ひと山のカードに向かってささやいた――。

「何をわたしは踏んでいるか?」

 その当時、わたしは、「何を踏んでいるか」ということが、なぜ母にとってそんなに興味があることなのか、理解できなかった。ずいぶん年がたってからやっと、わたしもそのことに興味をもちはじめた。

 すなわち、わたしは、土を踏んでいる、ということを発見したのだ。

 人間は実際に、何を踏んでいるかを気にしていない。まるで狂ったように右往左往して、せいぜい、この頭上の美しい雲とか、あちらの背後にある美しい地平線や美しい青い山が、どんな様子なのか、眺める程度だ、自分の足の下を見て、これは美しい土だ、と言ってほめるようなことはしない。

 手のひらほどの大きさでも、庭を持つべきだ。何を踏んでいるか認識するように、少なくとも、花壇を一つ持てるといいのだが、そうすれば、きみ、どんな雲も、きみの両足の下にある土ほど多種多様ではなく、美しくも恐ろしくもないことがわかるだろう。

 

 何もかもが思うに任せない。

 1月、「雪が少ししか降らないと、足りないと大っぴらに文句を言う。多く降ると、針葉樹やシャクナゲが折れはしないかと、深刻に憂慮する。さらに、全然降らないと、黒霜による災害を嘆く」。

 4月、「細心の注意を払って、花壇の土を耕してみるが、その結果は、思ったとおりだ。つまり、芽を出している球根を鍬でざくっとやってしまうか、アネモネの芽をシャベルですっと切ってしまう。びくっとして後ろへさがると、咲いているプリムラを自分の足で踏みつぶすか、デルフィニウムの若芽を折ってしまう。用心して注意すればするほど、被害の範囲も大きくなる」。

 5月、「『ちょっと見てよ』得意顔の持ち主は、自分のお客たちに見せびらかす。『これは、珍しい種類のカンパニュラなんだぜ。まだ、誰も分からないんだ。どんな花が咲くのか、興味津々だよ』

『これがカンパニュラだって?』客が聞く。『ワサビダイコンみたいな葉をしてるな』……

 さて、ついにこのユニークなカンパニュラは、花梗を出しはじめた。そして、その先には――。うーん、やっぱり、これはただのワサビダイコンだった。こんなものが園芸店のあの植木鉢に、どうしてまぎれ込んだのかは、悪魔のみぞ知る!」

 7月、「水道栓とホースを使えば、もちろん、〔じょうろよりも〕もっと速く、ずっと大規模に潅水することができる。比較的短時間で、花壇ばかりでなく、芝生にも、午後のお茶を楽しんでいる隣の一家にも、路上の通行人にも、わが家の内部にも、わが家の全員にも、そしてとりわけ自分自身にも、たっぷり水を浴びせられる」。

 

 意のままに運ぶ方が少ない、やきもきするような労苦と労苦と労苦があって、何が楽しくてこんな営みを続けているのか、よく分からなくなる。

 そう、まるで人生という徒労に限りなく似て。

 文化cultureと耕作cultivateが同じ語源を持つことは必然だった。一見すると愚痴の塊にしか見えない本書において、かつてアダムを作り給うた土は期せずして詩人を育まずにはいなかった。

「時にわたしたちは、ひからびた過去の残り物をまぶされて、腐臭を放っているように感じることがある。しかし、『今日』と呼ばれるその古い耕土の中に、いかに多くの太った白い芽が苦闘しながら道を切り拓いているかを、いかに多くの種がひそかに芽を出しているかを、いかに多くの古い苗が、いつかは花咲く生命として噴出する、生き生きとした芽として一つにまとっているかを、もしわたしたちが見ることができたとしたら、わたしたちの中に、ひそかな未来のざわめきを見ることができたとしたら、わたしたちはきっと、こう言うだろう。

 ――わたしたちの憂いや不信など、まったく馬鹿げたことだ。いちばんたいせつなことは、生きた人間であること、すなわち、成長し続ける人間であることだ」。

 ペーソスとスラップスティックに塗り固められたテキストだからこそ、いや庭仕事だからこそ、その隙間についうっかりとこんな大演説が顔をのぞかせてしまう。

「はっきり申しあげるが、死などというものは存在しない。眠りさえも存在しない。わたしたちは、ある時期から他の時期へと成長するのみである。人生は辛抱しなければならない。人生は永遠なのだ」。

 悪妻は夫を哲学者にする。悪庭は主を詩人にする。

 

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