主人公フローレンス・ダロウは、フロリダの片田舎ポート・オレンジ出身の編集アシスタント。曲がりなりにも大卒の彼女が、低賃金かつ明日をも知れぬ不安定な雇用契約にもかかわらず、ニューヨークで文芸の仕事にしがみつく、そんな不条理を耐え忍ぶには訳がある。彼女には野心があった、そう、「自分も作家になりさえすればいいのだ。そうすればこの疎外感は魔法のように一変するだろう。恥の源から、才能の証へと。
未来に思いを馳せると、窓際に置かれた美しいデスクのまえで新たな傑作を執筆している自分の姿が目に浮かんだ。パソコンの画面に映った文字までは見えないが、見事な文章であることはわかっていた。その作品によって、自分が真に特別な存在であることが決定的に証明されるのだ。フローレンス・ダロウの名声は不動のものになる」。
もっともそんな彼女は間もなく、行き詰まりの破れかぶれの末に、職場を追われる羽目に遭う。書き溜めていた短編をエージェントに片っ端から送りつけてはみたものの、なしのつぶて。ところがそんなある日、そのうちの一件から思わぬオファーが舞い込む。2年前の処女作が「#MeToo運動の真っ只中に登場し、激しい義憤に満ちた自制の空気を完璧に捉えた」ことで一夜にして文壇のスターダムに躍り出た、あのモード・ディクソンのアシスタントを務めてみないか、という打診だった。フローレンスもまた、「それまで読んだどんな語りともちがう、凶暴なまでに鋭く殺伐とした声」に魅せられたひとりだった。この書き手は「社会のはみ出し者なのだ。私と同じように」と共感を寄せずにはいられない、当のモード・ディクソンの傍らで仕事ができるというのである。
もっともディクソンは、このSNS時代にあって極めて異質な存在だった。顔も本名も経歴も、それどころか性別すらも、プライヴァシーの一切が公開されていないのである。当然この依頼を受諾するに際しては、すべての情報の口外は秘密保持契約により禁じられる。しかし、いかなる要素ももはや、フローレンスが憧れの存在に近づくための千載一遇のこの機会に乗じない理由とはならなかった。
アシスタントとしての最大の仕事は、モードの中の人ことヘレン・ウィルコックスが記した悪筆の手原稿をひたすらPCにリライトしていくことだった。判読できない単語を憶測によって埋めていくだけのはずのこの作業に、ところがフローレンスはやがて快感を覚えていく。そうして「共同作業者になった気分」を得た「彼女はますます大胆になり、ヘレンが書いてもいない言葉をあちこちに加えはじめた。そうしたほうが作品がよくなるからだ。確実に」。あの『ミシシッピ・フォックストロット』のセンセーションに比して圧倒的に精彩を欠いたその新作が、自身の手によって磨き抜かれていく、言い換えれば今や、モード・ディクソンとはフローレンス・ダロウの別名に他ならなかった。
思い起こしてみれば、そもそも彼女にとって書くことの真髄とは「何よりも自分がフローレンス・ダロウでなくなる」快感にこそあった。
奇しくも取材のためにヘレンに同行したモロッコの地で、フローレンスは「自分がフローレンス・ダロウでなくなる」チャンスを、ヘレン・ウィルコックスに変身するチャンスを、すなわちカリスマ作家モード・ディクソンを乗っ取るチャンスを手に入れる。
ミステリーとしてはいささかお粗末との念は拭えない。人の眼は騙せてもテクノロジーの網はかいくぐれない、50年前ならともかくも、現代の各種認証システムが本書のシナリオを成立せしめるとは到底信じがたいのだから。アフリカの地で旧友とばったり再会、ましてやその彼女が顔見知り程度の間柄どころか元カレのパートナー、そんなご都合主義を煮しめた偶然にもほとほと辟易とさせられる。そんな舞台にスリルを見ようにも、リアリティの欠如がどうにも浮き上がって、興醒めの観は否めない。
しかしジャンル小説としての評価はひとまず括弧に入れて、モード・ディクソンというペンネームを軸に据えてプロットを再読解していくと、この基本構造はすばらしくよくできている、と讃える他ないのである。
フローレンスにとってフィクションとは紛れもなく、「みっともない自分を脱ぎ捨てて、まっさらで純粋でからっぽにな」るための媒体だった。そんな彼女が、モード・ディクソンというFacebookにもInstagramにもLinkedInにもかかりようがない空虚な筆名に、それが空虚なればこそ魅せられるのは必然だった。
ところが他方で、当のヘレン・ウィルコックスは語る、「自分自身の話から逃れられなかった」。何を書いても行き詰まりに直面させられてきた作家未満の存在が、「自分の中に書かずにはいられない物語があったから、それを形にした」ときに何者かへの変身を遂げる、そしてそれを匿名作家として発表することで彼女はモード・ディクソンへと生まれ変わる。
フローレンスに向けてヘレンは奥義を授ける。「真似を続けていれば、いつのまにか自然に身につくものよ。ふりだったものが本物になるの」。かつて何者でもあれなかった存在が、模倣を通じてはじめて「語るべき物語」を手にする、すなわち何者かになる。
すべてことばを持たない存在は、何者でもあれない。
イサクとヤコブの「創世記」の昔から、なりすましというのは文学における常套手段であり続けた。その最高峰がヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』であろうことに異論の余地はなかろう。そして本書は、あからさまにその「真似」をもって成り立つ。マドレーヌの皮をかぶったジャン・ヴァルジャンと、その偽装を嗅ぎつける警部ジャヴェール、その関係性を本書は限りなくトレースする。作品内で、なりすましの変身物語が破綻していくさまを描き出したこの作家は、ただし現実においては、無数のフォロワーという名のなりすましを生み出すことで、その変身物語を不朽のものへと昇華させた。
これは断じて剽窃などではない、「真似」なのである。「ふりだったものが本物になる」、いや「ふり」こそが「本物」なのだ。ことばはクローニングできる、知識はクローニングできる。人間という有限個のスクリプト反応を宿命づけられた存在において、いかなるときも「物語」とは「真似」の換言以上の何かを意味しない。
「別人の生を生きること。それをうまくやってのけたとき、自分自身の存在価値も認められる」。
人は誰にでもなれる、つまり誰かにしかなれない、そんな人格というおとぎ話の終焉を見事に本書は描き出す。