I've Grown Accustomed to Her Face

 

 ヒロインりりこは、ティーンを中心にカリスマ的な人気を誇るトップモデル。昨今では女優やバラエティ、音楽と手広く活動の幅を広げ、多忙な日々を送る。ところがある人物が評することには、

「彼女の場合/奇妙なのは顔・姿/のみならず発言に/全く定点がない/ところなんだよ

 ……普通 人間が話すことは/その育った歴史 環境/または性格 感情が/すけてみえるもんだよね

 彼女が/メディアで/発言する/ことには/それが全く/見えない

 表面だけだ……

 彼女の美しさは/イメージの/モンタージュ

 つまり我々の欲望/そのままってこと/さ!!

 彼女には表面しかない、他のものなどあるはずもなかった。なぜならば、

「このこはねえ/もとのまんまのもんは/骨と目ん玉と爪と髪と/耳とアソコくらいなもんでね

 あとは全部つくりもんなのさ/

 すごい無理に/無理をして/こしらえたのが/今のりりこ/なんだよ」

 そして「魔法はいつかとける」。

 絶頂の最中、整形手術のバックラッシュが彼女をじわり蝕みはじめる。

 

 少し前にバーナード・ショーピグマリオン』を読む。

 何やら強烈な既視感に苛まれて離れない。大方、BSか何かでザッピングしながらさっとかじった映画『マイ・フェア・レディ』の記憶なのだろう、と思っていたが、ふと氷解する。

 その昔、始発待ちのマンガ喫茶で時間つぶしに読んだ『ヘルタースケルター』だった。

 改めて読み返し確信する。ビンゴ。

 ミス・ドゥーリトルにとってのヒギンズがすなわち、りりこにとっての「ママ」だった。ヒギンズがその卓越した音声学の知識を駆使して、コックニー訛りの場末の花売り娘に本物以上に本物らしいクイーンズ・イングリッシュとアッパー・クラスの礼儀作法を叩き込んだように、プロダクション社長の「ママ」は、骨格だけは多少なりとも恵まれたみにくいあひるに整形手術を施すことで、自身のレプリカントとしてりりこを作り出した。

 とはいえ、彼女たちには「表面」しかない、何が満たされることもない。きらびやかな衣装に身を包んだイライザがその極上の発音や修辞の粋を凝らして放つセリフといえば昔と変わらぬ底辺丸出しの罵詈雑言、それはあたかもりりこが「ホラ こういうのって/聞きたいでしょ?」をそのまま演じ続けるインタビューのバックヤードで、奇声を発し、ハラスメントを重ね、ガラスをひたすらかち割るくらいしかやることがないのに限りなく似て。薬物もセックスもりりこに何らの鎮痛効果も与えない。彼女は「わかってる そんなことをしても なんにもならない ただのひまつぶしだ」と。

「表面」しか持たない彼女たちは、「表面」だけの乱反射にめまいとともに包囲されつつ、さりとて何ができるでもない。

 

 階級のコードがミス・ドゥーリトルを作り、消費のコードがりりこを作る。

 1912年のバーナード・ショーの戯曲には、かくも虚しき空騒ぎをもって階級社会の破綻を告発せんとするその意図があからさまに籠められていた。そこにはH.G.ウェルズやカール・マルクスの残照も容易に観察できただろう。

 対して、戦後日本の没年、新しい戦中の幕を開けた1995年の岡崎京子がりりこに仮託したのは、広告社会、消費社会の飽和だった。

 もとよりすべて人間関係に失敗の説明関数という以上の機能は付されていない。階級だ、役職だ、なんて、今日今すぐにでも解体しようと思えば解体できる、そんなものはたとえなくても困らない、それどころかなければないほどうまく運んでくれるのだから。100年前を振り返っても、1000年前を振り返っても、所詮は支配‐被支配の構図を決して脱することのない関係性というこのボトルネックが、「表面」しかない空っぽな障害物以外の何かであったためしなどないことくらい、誰しもが知っている。

 世のすべての関係性(笑)なんて、まさしくそこにはタッチパネルで置換可能な「表面」しかないがゆえに、いつでもシャットダウンすることはできる、しかし、消費となるとそうはいかない、自殺とてまた消費の一様式を超えない、いかなる仕方でもやめることができない。

 マス・メディアのおもちゃになることでスターダムの階段を駆け上がる、そんな旧時代型セレブリティの典型をこの物語は表す。スクリーンに映し出されるマリリン・モンローだけでは物足りない人々は、パパラッチとともにノーマ・ジーンの日常をひたすらに食い潰し、ただし「みなさんはいつもとても飽きっぽい」、そのはかなき風前の灯を燃やし尽くせばまた別の生贄を探して回る。

「みんな何でもどんどん忘れてゆき

 ただ欲望だけが変わらずあり そこを通りすぎる

 名前だけが変わっていった」。

 そして現代、SNSの華盛り、世界はもっとずっと悲惨になった。イエロー・ジャーナリズムがスターにつきまとうことで小銭を得たのも遠い昔、今や被写体だったはずの彼らが率先してプライヴァシー――を擬した何か――の切り売りに精を出してやまない。

 人は誰しもが15分に限り有名人になれる、アンディ・ウォーホルによるこの予言は半ば的中した。ワイドショーや週刊誌が炎上を主導した時代ならばその賞味期限は数ヵ月、場合によっては数十年、それだけ非効率にタイムパフォーマンスを投げ売りすれば記憶にも記録にも残っただろうに、今となっては有‐名でいられるのはいいところが3分間、そしてただちに忘れ去られて、焼け跡にはその名前すら灰と消える。

「表面」だけのりりこの時代には、つまり映したくない、隠し通したい裏面がまだ辛うじてあっただろうに、InstagramYouTubeを通じてせっせせっせと裏側を映し続ける、でっち上げ続ける、かつてならばセレブリティと呼ばれただろう現代の彼らは、裏と表の境をなくし、そうしてもはや何者でもなくなった。

 ネット越しに見たいものだけを見る、見たくないものは見ないゾンビたちもまた、その永遠の予定説ループの中で何者でもなくなった。

 吸い上げられたデータセットを残して、用済みの彼らは消えてなくなった。

 

 階級のための階級が終わり、消費のための消費が終わり、そして人間のための人間が終わる。

 1912年の『ピグマリオン』、1995年の『ヘルタースケルター』、そして20xx年の来るべきネクストといえば――AIが何もかもデザインしてくれる、もちろんたかが人間ごときを相手してくれれば、という虫のいい仮定の下での絵空事だけれども。イケメンに癒されたければ、カワイイを拝みたければ、街中を窃視する必要などない、デバイスを覗き込めばいい。どうあがいてもマネキンになんて勝てやしない、そのカスタマイズの計算精度を前にしては、生身の人間とやらを参照すべきいかなるインセンティヴも設定しようがない。

 もっとも、これしきの夢想はギリシャ神話の中にすら既に謳われていた。

 リアルの女に幻滅を重ねたピュグマリオーンは彫像に恋をして、そしてやつれ果て、あまりに哀れな姿を見かねた神によってアニマが吹き込まれることでようやく彼らは添い遂げた。

 もちろん、この世界に神なんていない、いや、いなかった。

 今は違う、ビッグ・データがフィルター・バブルの内側に大衆のゆりかごから墓場までをいかようにもオン・デマンドしてくれる。所詮、人間に経験可能な出来事など有限個のスクリプトの演算を超えない。幸福にも、良く効くおくすりの処方箋はとうの昔に導き出されている。セックス・ポルノ、フード・ポルノ、感動ポルノ……フォワ・グラ用のガチョウの餌づけさながらに、ひたすら安っぽいジャンクなポルノを死ぬまで喉奥にねじ込んでやればいい。

 こんな汚物に声はいらない、顔はいらない、名前はいらない。

 

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