さよならプラスティックワールド

 

「元気が欲しい」。

 職場の保険代理店でも風采は上がらない、自宅に帰っても乳飲み子を抱えた妻に責め苛まれる、これといった趣味があるでもなければ、そうした愚痴をこぼせる友人のひとりもいない、体質的にアルコールも受けつけない。そう、「自分」こと藤原祐輔には何もなかった。

 そんな彼には、辛うじての慰めがあった。通勤の車内で出会う名も知らぬ「彼女」の存在だった。週に2度、混雑する車両で制服姿の「彼女」の傍らをかすめる。「彼女からはいい匂いがした。咲きたての花のような、青みがかった甘い匂い。彼女からの元気を身体に取り入れると心がなだめられ、ごく稀にぼんやりとした熱を足の付け根に熾しもさせられる。/……自分の方が先に降りる。その時に彼女の横を通り、少しだけ元気をわけてもらう」。

 その日の彼は、とりわけ「元気」を必要としていた。大胆にも「彼女」の真後ろに立ち、マスクから鼻を出して息を吸う。「元気の源が肺一杯に広がる。さらに吸う。元気をもらっている、いや、もらってなんていない。ただ空気を吸っているだけ」。ふと電車が揺れて、前がけのリュックの肩ひもを握った彼の手に、バランスを崩した「彼女」の背中が限りなく接近する。彼は思う、「ちょっとだけでいい、確認したいだけ。……硬いのかどうか、知りたいだけ」。

 そうして右手を背中に伸ばしたその刹那、それを咎める別の手があった。「男」の手だった。かつてあの「彼女」の姿をスマホで盗み撮りしていたその「男」は言った。

「触ったら、ガチでアウトです」。

 

 序盤、「狭間の者たちへ」を読みながら、いかにも腑に落ちないことがあった。

 いわば本書は典型的な弱者男性の肖像を映し出す。その彼が、嗅覚という仕方で女性を消費することを厭わないその彼が、ネットだろうがDVDだろうが、どうしてセックス・ポルノの性的搾取に食指を動かさずにいられるのだろうか、と。あるいは、妻をはじめとする周囲に対して女尊男卑の風潮を読み解かずにはいられない被害者意識全開の彼は、その憂さを晴らすべく、例えばSNS上にミソジニーの同士を発見することに躍起になるだろうし、愛国保守ポルノ、陰謀論ポルノにも必ずやのめり込まずにはいられないことだろう。鬱屈の発散に効果覿面なのは、過剰に糖分を摂取して血流を位に集中させて脳の働きを鈍化させること、そうしたジャンク・フード・ポルノを貪るシーン、もしくはテレビやYouTubeで他人のそのさまを漁るシーンも表れてはこない。

 自然主義としてこの小説を読み解くならば、類型的セグメントにほぼ共通するだろうこれらテンプレ行動のことごとくが書き込まれないのは、いささか不可解としか思えなかった。

 

 しかしあくまでフィクション空間における出来事として落とし込めば、この小説は非常に一貫した構造を持っている。鍵はすなわち、彼にとってのメフィストフェレスタイラー・ダーデンを割り振られた「男」の存在にある。まるで合わせ鏡のようなもうひとりの自分である「男」が担うのは専ら視覚、それは単に盗撮するにとどまらず、「彼女」が身につけるアイテムから推しを特定してSNS上のフレンドにすらなってしまう。

 もっとも、この作品内での「男」の機能は事実上ここで終わる。藤原祐輔という「自分」が、見る‐見られるという非対称性の当事者適格を剥ぎ取られた存在であることが「男」を通じて定義されてしまいさえすれば、「男」は既に用済みとなる。

 遡ること半世紀、見田宗介永山則夫をめぐる論考を放ち、そして物議を醸す。社会学者がこの死刑囚に見たのは「まなざしの地獄」だった。地方出身者、極貧、低学歴……そうしたレッテルが幾重にも貼られる一方で、都市における彼は安価な使い捨て労働力という以上のアイデンティティを決して与えられることがなかった。無数の「まなざし」が永山を値踏みしていく、しかし、そうした「まなざし」に日々傷つけられていく彼の内面を人々は決して「まなざ」そうとはしなかった。彼が社会から発見されるには連続殺人を待たねばならなかった。

「狭間の者たちへ」における藤原のありようが、どこか永山に重なる。例えば氷河期アラフォーにとって「あっただけましだった」最初の就職先からしてそうだった。入社早々瞬く間に「些細なことだが、求められた水準で応えられないことが積み重なり、出来ない人のアイコンと化した」。一度「出来ない人」という「まなざし」を獲得してしまえば、「同僚と同じように働いていたとしても不出来と見做される」。学生時代の記憶として蘇るのは専ら陰湿ないじめ、そもそもからして彼は「出来ない人」だったのかもしれない、いやもしかしたら、「出来ない人」との「まなざし」が他のポジティヴな思い出の一切を可塑的に封じてしまったのかもしれない。転職した保険代理店でも支店長を任されてはいるものの、成績は一向に振るわない、社員やパートからも「出来ない人」扱いされていることはひしひしと感じている。

 しかし彼がこの「まなざしの地獄」と同時に陥っているのは、「まなざし」を受けることすらできないというその地獄でもある。家に戻れば妻から浴びせられるのは罵声だけではない、時に「凍ったアラビアータを頭の上に振り上げ、力いっぱい振り下ろしてきた」、そんな暴行に苛まれる日々を生きながら、まさか誰に打ち明けることもできない、挙げ句に少しでも身を守るための抵抗をすればめでたくDV夫の完成である。「卑怯だ。弱者のふりはもう通用しない」、そんな彼の苦悩を「まなざ」す者は誰ひとりとしていない。職場では年下のエリアマネージャーからのパワハラを受ける、しかしその叱責を「まなざ」す同僚の影はない、彼は嘆く、「撮影してもらえるだけましやないか」と、「まなざ」してもらえるだけましやないかと。

「まなざ」す‐「まなざ」される、この主客関係にすら入ることのできない彼を、小説の文体が何より象徴している。終始、一人称と思しき視座から描き出されるにもかかわらず、彼の一連の行動はほぼ主語を持たない。書き出しからしてそうなっている。「背中で電車の扉が閉まった。大阪の最南部から都会へと向かう車内の座席は全て埋まっており、入って来た扉に向き合った。リュックを身体の前に抱え直してから、スーツのジャケットも一緒に引っ張らないように注意してウィンドブレーカーを脱ぐ」――ここには行為の主体を示す呼称が一向に現れて来ない。時たま「自分」という主語が観察こそされるものの、使用は極めて抑制的である。

 何もかもが強いられた息苦しい存在としての「自分」を永山と同じ「まなざしの地獄」に落とし込むのは、極めて容易な作業である。弱者男性。彼はこの四字熟語をもってたいていの説明が完了してしまうキャラでしかなく、しかし、彼はそうあることすら気づかれていない、「まなざし」にさらされることすらない、おそらくは現実の当事者がそうあるように。

 

 その中で、「彼女」から漂うあの匂い、実家で嗅ぐ「味噌汁と炊きたての米のにおい」、かつて愛した「あーちゃん」のまとう「色の濃い花が発する、熟した甘い匂い」、嗅覚だけをよすがに辛うじて「自分」はその主体性を、「元気」を起動させる。

 もっとも巧みにも、実際のところは、彼はとっくにそのスイッチすらも奪われている。不妊治療の最中、因果関係はともかくも、精子の不活発という事実を盾に彼は妻から禁煙を命じられた。「家の中で吸わなくなったが、朝に電車に乗る前に近くのコンビニで、昼と夜はショッピングモールの喫煙所で吸った。どんなににおいを消しても妻は察知し、その度に『私がどれだけ頑張っているか』を泣き叫んだ」。このフレーヴァーを差し出した段階で、逆説的にも彼の去勢は前もって済んでいた。

 

 しかしその透明な存在としての「自分」がついに「まなざし」のスポットライトに立つ瞬間が訪れる。それはつまり、あの「彼女」からついに「気持ち悪いっ!」と告発されることで。

「全員の視線がこっちを向いている。身体の表面が視線で形作られていく。自分を見ているようで、見ていない」。

 ならず者として指差されることでしか彼は「まなざし」を獲得することができない。そして、痴漢のような、ストーカーのような何かとして彼への「まなざし」は叫びとともにたちまちにして固定される。彼が背負わされるバックグラウンドになど誰ひとり思いを馳せようとはしない。一様に、彼のことを「見ているようで、見ていない」。

 罪を犯すことでしか世間からの「まなざし」を得ることができない、それは例えば「宗教二世」が暗殺を遂げることをもってはじめて存在を認知されたように。とはいえ、誰も彼も「見ているようで、見ていな」かった、だから新しい炎上案件が発生すれば、たちまちにしてそんなニュースは忘れ去られる。人の噂も七十五日などと言っていられたのも遠い昔、今やせいぜいが75分、いや75秒、もしかしたら7.5秒で「まなざし」の賞味期限は過ぎていく。

「電車が動き始めた。会社に遅れる。行けない、行かなくてもいい。頭が自然と下がる。家族へのメールを考えなくてもいい、成績のことを考えなくてもいい、彼女の匂いを嗅がなくてもいい、子供を作らなくてもいい。膝が折れ、鼻先がコンクリートにつく」。

 orzと崩れ落ちて何者でもなくなった彼に、この瞬間、カタルシスすら覚えてしまうのは気のせいか。そのさまは、ドストエフスキー罪と罰』のあのキス・シーンを彷彿とさせずにいない。もちろんそこにソーニャはいない。

「まなざしの地獄」と「まなざし」なき「地獄」が共存する、見田宗介のその先を、この小説は見事に映し出してみせる。

 

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