宗教二世

 

 4車線道路の脇にある5フィート(約1.5メートル)の雪の吹き寄せの横に、小さなコーヒースタンドがあった。その明るい緑色は、地面のアスファルトと、灰色で無機質な大規模量販店の姿とは対象的〔原文ママ〕だ。スタンドの前を車で通り過ぎる運転手の目には、楽しげな印象ではありながらも、ひっそりと佇むその小屋の屋根が、積もった雪の上から見えていた。

 前日の夜、18歳のサマンサ・コーニグは、たった一人でこのコーヒースタンドで働いていた。そして、姿を消した。彼女がこの店で働きはじめて、1ヶ月も経っていなかった。

 201222日木曜日の朝、出勤してきたバリスタによって、彼女が行方不明であることが警察に通報された。バリスタは、いつもと違う様子に気づいた――サマンサはきっちり閉店の作業をしていく責任感のある女性だったというのに、その日の朝は店内にものが散乱した状態で、その上、前の晩の売上金が消えていたのだ。

 

 防犯カメラの映像もあるにはあったが、犯人の特定に寄与するほどの何かをとらえてはいなかった。ドラッグの密売に手を染める父親も捜査線に浮上するも、これといった決め手はない。おなじみのFBIプロファイリングが導き出すことには、「若い男、たぶん白人。低賃金の仕事に就き、人との関係維持が難しく、特に女性に対して怒りのコントロールがまったくできない。それが容疑者だ」。

 やがてアンカレッジからはるか遠くテキサスにて被疑者名義のクレジット・カードが使用されたことから、ひとりの男の身柄が確保される。もっとも見た目には、「スポーツ万能で、ハンサムで、賢く、技術を持ち、明らかに冒険が好きそうなタイプ」、陸軍での勤務歴もあり当時の評価も実に優秀、現在は工務店を営んでおり、人当たりよく顧客の受けは上々。娘もひとりいて、逮捕当時は女性と同棲してもいた。何かの間違いとしか思えなかった。

 やがて自供をはじめた彼は言った。

「俺の中には2人の人間がいる」。

 

 時の流れによってその意味が書き換えられてしまうテキストがある。

 原著2019年、邦訳2021年のこの一冊ほどに、とりわけここ日本において、その典型となるものも珍しい。

 たぶん出版当時ならば、21世紀のテッド・バンディとでも受け止められていたことだろう。捜査陣との駆け引きを楽しむそのさまなども『羊たちの沈黙』を想い起こさせずにはいない。当局が有するどんなデータベースよりもgoogleは圧倒的に優秀で、潤沢なリソースなどあくまでドラマの中だけ、そんな貧相な実態を訴えるルポルタージュとしてもあるいは読まれ得たかもしれない。

 しかし20227月以後にこのテキストを手に取る者は、必ずやとある被告人との相似性を見出さずにはいられない。

 そう、その男、イスラエル・キーズは宗教二世だった。

 

 1977年、モルモン教の聖地ユタにて彼は誕生した、と思われる。この留保には理由がある、何せ公的にその事実を証明するものが何もないのだから。医療への不信をこじらせた両親のもと、彼とその他9人の兄弟には、出生証明書や社会保障番号すらも与えられなかった。当然、学校にも行かせてもらえなかった。「刑務所のような」人里離れたその場所で、彼らは「熱源も水道設備も電気もない生活を7年も送る」。子どもたちは「資産」、つまり、「ただの労働力だと考え」られていた。友達なんてできるはずもない。「テレビもなく、ラジオもなく、コンピュータも電話もなく、外の世界との繋がりを一切持たなかった」。施された教育といえば、すなわち聖句の丸暗記だった。

 やがて彼らはモルモン教に幻滅を覚える。もっともそれは別の宗教にのめり込む契機となったに過ぎなかった。反ユダヤ、白人至上主義のその教団への転向によって、イスラエル少年はようやく外の世界を知ることとなった。しかし皮肉にも、自警主義者に育てられ6歳にして早くも銃に魅了されていた彼にとって、放り込まれたその環境は後のシリアル・キラーへのブースターとしかならなかった。とりあえず動物を撃ち殺す、やがて飽きが来て、その銃口を人間へと向けるようになる。怨恨や借金といった明快な動機を持たない、ただ殺したいから殺す、苦しめたいから苦しめる、その他にイスラエルの中に住まうもう一人の自分が満たされる道など存在しなかった。

 

 彼の凶行が見つからなかったのはすなわち、彼の存在そのものが見つかっていなかったから。

 

 証言者すらも限定されたその半生をたどるとき、読者として時に妙な感動にすら誘われることをどうにも禁じ得ない。まともな教育を施されてもいない、それどころか家族の他にろくに接点すらも与えられない、何なら電子機器とすらもおよそ隔絶されていた、挙げ句には狂信的な父から勘当されて、ティーンにしてひとりきり放り出された。

 むしろこれだけの条件を揃えながらも、ホワイト・トラッシュの中のホワイト・トラッシュとして、アルコールかギャンブルにでも溺れるより道のない絶望死予備軍に堕さなかったことが不可思議ですらある。

 与えられたプレイ設定を鑑みるに、彼が樹立したキャリアというのは驚異的ですらある。少なくとも本書の記述による限り、軍人としてかなり高い水準のディシプリンを示していたし、複数の女性と関係を結べるほどの魅力も帯びていた。入隊に必要な学力はほぼ独習でまかなった。学歴のないところから建設業を自営するにこぎつけたというだけでも特筆すべきことだろう。銃の構造を把握して改造に手を染めた、その域にまで何かに没入できるというのも、ほとんどの人間が生涯にわたって知ることなく終わる、ある種の才能と呼んでいい。取調室におけるやりとりにしても、相当なハイ・スペックをうかがわせる。

 ここに尊厳を見てしまうのは錯覚か、ただひとつ、殺人に憑かれさえしなければ。

 供述によれば、彼が手を染めた犠牲者の数は「1ダース以下」。もっともそのうちで、状況証拠を超えて具体的な立件にたどり着いたのは、サマンサただひとりだけだった。単に自らを大きく見せたいがためにでっち上げただけの一介の薄ら寒い事件マニアに過ぎなかった可能性も否定はできないが、内包するこの衝動に振り回され疲れ果てた彼が、自身への速やかな死刑の執行を求めたのは、紛れもない本心だったとしか思えない。もっともそれを確かめる術はもはやない。

 それほどの逸材ゆえにこそ、彼が他の生き方を選択できなかったということに絶句させられる。

 

 

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