時代は変る

 

 現役生活で〔カシアス・〕クレイはヘビー級の世界王者を3回獲得し、3回失った。ネイション・オブ・イスラムへの忠誠を誓い、モハメド・アリに改名した。アメリカで最も忌み嫌われる存在から、一挙に形勢を逆転させ、最も愛される存在となった。徴兵忌避者からアメリカの英雄となった。スピード、パワー、スタミナ。そしてパンチを浴びてもなかなか倒れないという恐るべきタフネス。これらすべてを兼ね備えた稀有なボクサーとして、史上最強のヘビー級ボクサーの地位を獲得した。あるライターが評したように、「20世紀を象徴する存在」として、地球上で最も有名な人物となった。そして、およそ20万発ものパンチを身体と頭に受けたすえに、パーキンソン病を患ったことで、その個性を奪われた。俊敏さ、愛嬌、傲慢さ、言葉遊びのセンス、優美さ、男らしさ。呆れるほどやんちゃに振る舞いながらも愛されたいと訴える、少年のような目の輝き――クレイの個性は実に圧倒的なものだった。……

「俺はアメリカだ」とクレイは胸を張って言った。

「みんなが認めようとしないアメリカだ。それでも俺に慣れてくれ。自信に満ち溢れた、生意気な黒人。俺の名前は、俺のもの。俺の信仰は、俺のもの。俺の目標も、俺のもの。そんな俺を受け入れてみろ」

 

 無意識過剰――本書を読みながら、度々そんなことばが頭をよぎる。

「蝶のように舞い、蜂のように刺す」、ヘビー級としては異例のそのスタイルからして「楽譜の読めない天才シンガーのよう」なもの、誰が彼に教えたでもない、むしろセオリーへの無知から生まれたに過ぎない、いわば偶然の産物だった。

 キンサシャの奇跡を呼び込んだロープ・ア・ドープにしても、「必要に迫られて生まれた作戦だった。そしてマゾヒズムのなせる技だった。アリには、逃げるスピードもなければ、各ラウンドの終盤を除いて、反撃するパワーもスタミナもなかった。せいせいできることといえば、〔ジョージ・〕フォアマンより長く持ちこたえ、粘り勝ちを狙うくらい」だった。

 モハメド・アリへの改名からして、本人の信仰上のマニフェスト云々というよりも、ネイション・オブ・イスラム内部での政争の結果に過ぎない、彼はほぼ蚊帳の外に置かれていた。

 良心的兵役拒否、というほどのポリシーも当初においてはたぶんなかった。「心から理解できないのは、なぜ俺なんだってことだ。俺はベトナムにいる兵士の5万人以上の給料を支払える男で、2試合で年に600万ドルの税金を支払った男だ。2試合に出るだけで、爆撃機3機買える男なんだぞ」。まず間違いなく、このコメントに彼のステートメントは凝縮されている。あとはせいぜい、適性検査に一度は落とされたはずなのに、という腹いせくらいだろうか。

 

 気がつけばいつも同じような話ばかり繰り返している。およそ表現者たちを縛ってやまない、例えば作家性と呼ばれる何かを彼の軌跡にこじつけることはどうやらできそうもない。

 しかし彼は紛う方なきアメリカのアイコンとなった。

 マーティン・ルーサー・キングの説教なんてほとんどが暗殺を受けての後づけでしかなくて、当時において果たして誰が耳を傾けていただろう。しかしアリは違う、オンタイムでさえも、いやオンタイムだからこそ、傲岸不遜のマイク・パフォーマンスを誰しもが聞きたがった、一挙手一投足に誰しもが釘づけだった。いついかなる時代にあっても、大衆を動員するに必要なのは怒りと不安、サルどもには破壊はできても創造はできない、なぜならば想像する能すらないのだから。テレビ・メディアの時代が求めたこの元祖炎上王は打ち明けずにはいられない、「もうボクシングをやってる気がしない。これはショウビジネスだ」。劇場に一度発言を投げ込んでしまえば、あとはそれを受けたブラウン管の向こうの数千万人の聴衆が勝手に肉づけをしてくれる、ムーヴメントも作ってくれる。かくしてその影響力は、本人の与り知らぬインフレを重ねて、唯一無二のものとなった。

 徴兵拒否を受けての有罪判決は後に取り消されることとなった。それはまさしく時代精神の反映だった。さっさとベトナムの失敗なんて忘れてしまえ、公民権運動もいつしかうやむや、政治の季節よりも日々の消費生活がすべてなのだ、と。そうして破格のファイトマネーを稼ぎ出し、会場に肌の色を問わずセレブリティを動員する彼は「アメリカのメインストリームに近づき、アメリカのメインストリームはアリに歩み寄っていた」。誰しもがその共犯関係を享受した。アリが意図的にそう仕向けたわけではない、歴史の文脈が勝手に後からついてきた、それこそがまさに彼の時代の寵児たる所以。

 すべて発話の意味なんて、その瞬間に何が語られたかではなく、その後に何が起きたのかに従って規定される。

 

 名声をいかに重ねども、「闘えなくなるまで、引退させてもらえないかもな」。このドル箱はひたすらに食い物にされた。まるで催眠術のように、彼のメンターは収入の40パーセントをもかすめ取っていった。お抱えの運転手に私物をくすねられてすら、解雇しようとはしなかった。健康保険のシステムさえ知らされていなかった彼は、身内やスタッフの医療費をすべて自腹でまかなっていた。ある実業家が持ちかけたのは、アリを広告塔とした自動車ブランドの立ち上げ、しかし彼は製品開発のために100万ドルを投資しなければならないというサイドレターの意味を理解してはいなかった。

 宴が終わったその後で、単に金庫を空にされる程度ならば、まだ何かしらの救いはあった。しかし彼には、パンチ・ドランカーの後遺症が残った、残ってしまった。

 

 ボクサーでいられなくなった彼は、それでも「優しくて純粋な心の持ち主だった」。

 1995年の郷里ケンタッキー、ルイヴィルでの出来事。アリの滞在を聞きつけてか、古くからの知己が母の家を訪ねてくる。曰く、大病に苦しむ父の見舞いをしてほしい、とのこと。朝食の途中だというのに、彼はその不自由な体を起こして、さあ行こう、と立ち上がる。当人との面会が終わった後も、彼は病院に留まり続けた。「医者や患者の家族が、アリを探しにやって来ては、まるでアリが医師か神父でもあるかのように、他の患者にも会ってほしいとせがんだ。……/患者と握手し、廊下で用務員とスパーリングをし、看護師をひやかし、子どもたちに手品を披露したのである」。

「半分神話のような」大言壮語のザ・グレイテストの正体は、穏やかな笑みを湛えるただのお人好しだった。

 

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