南無妙法蓮華経

 

「ところで、事件についてどう思っている?」

「事件といいますと?」

「服役することになった殺人事件だよ。被害者に対して、申し訳ないと思っているだろうね」

「あんなチンピラのために服役させられたことを、後悔しています」

「要するに、反省しているわけだ」

「自分は今でも、判決を不当だと思っています。向こうが深夜に日本刀を持って押しかけたんです」……

「しかし結果的に、殺害しているよ」

「相手はれっきとしたヤクザで、襲われた私は殺されかけたんです。無我夢中で刀を奪い、気がついたら相手が倒れていたから、救急車を呼んで自首しました」……

「それはわかった。いずれにせよ、24歳の若者が死んだことを反省してほしい」

「常識的には、傷害致死なんです。ところが被告人質問のとき、検事に11ヵ所も刺して相手が死ぬと思わなかったか?”と聞かれて、思ったかもしれない”と答えたものだから、揚足取りで殺人に訴因変更されました」

「その点は、裁判所も認めたろう」

「しかし、未必の故意殺人罪とは、こじつけも甚だしいですよ。懲役10年は今でも納得いかん」……

「とにかく、二度と来ないことだ」

「はい、頑張ります」

 ここで頭を下げたが、保安課長は『身分帳』をめくり続ける。

 受刑回数=10犯、服役施設=6入、拘置所・刑務所=全国23ヵ所だから、何冊かに分けられた綴りの一部である。全部を積み上げると1メートルを超すと聞いた。……

 すべての出所者の中で、再犯で刑務所に舞い戻る再入率は、仮釈放=34パーセント、満期出所=62パーセントという。

 

 出所を前に、身元引受人の弁護士は主人公、山川一に手紙を送る。

「このところ、君をどのように受け入れるかの計画が、僕の頭の中でかなりの部分を占めている。社会への復帰の第一歩を、円滑に健康に明るく踏み出せるように、と。

 一番大事なことは、君がこれまでに失っていた人間に対する信頼感と愛情(少し感傷的かな)を回復することで、その期待に僕自身がどれだけ応え得るかだ」。

 

 読みはじめて間もなく、妙な引っかかりを生む記述に当たる。

 山川がカトリック系の養護施設で過ごしていた頃のこと、「年上の女の子がガラスの破片で手首を切る事件があった。……その園長が、“自殺未遂”を知り、涙を流して皆に説教した。『私たちの命は神に与えれたのです。あの世で人間は新しく生きますが、この世で悪業があれば、神に厳しく罰せられます。神に与えられた命を粗末にすれば、あの世で罰を受けねばなりません。自殺は悪業だから、心から神に詫びて許しを乞わねばなりません』。初めて見る園長の涙に、山川は激しく感動した」。

 この経験をターニングポイントに、彼が洗礼を受けたわけでもない。「大人になってから教会へ行かず、来世など信じてはいない」。しかし独房で針金による自傷を図り、虚ろな意識の中で、彼はふとそんな説教を思い出す。

 ここで生じた違和感は、決して気のせいなどではなかった。以後もこの『身分帳』には、節目節目に宗教をめぐる描写が映り込まずにはいない。

 物心がつくかつかないかの時分に母と別れ、預けられた孤児院は仏教系の施設だった。記録を求めて、数十年ぶりに訪問するも、資料は既に廃棄に廻っていた。ルーツをめぐる手がかりはかくして途絶える。

 その帰路、寺院の発行する新聞を読む。記事は、寺にゆかりの明月信尼の伝説を報じる。

「蓮華の花は、汚濁された泥沼の中から、比類なき高貴の花を咲かせます。浮世の泥中に薄幸悲運に哀しく生きてきた明月の二十二年の生涯も、真実に弥陀本願を信じて如来に縋ることが出来たが故に、死してついに口蓮華となって信仰の花を咲かせたのです」。

 その境遇がやけにおぼろに記憶する自らの母に重ならずにいない。新幹線に揺られながら、彼は涙を抑えきれない。

 それに先立って、旧友の手配で女神にまみえる。曰く、

「『それでも13年ぶりに観音様を拝んで、気持ちがゆたーっとなったよ』

『おお、信心深いこっちゃ。お百度を踏めば、御利益があるぞ』」。

 霊験あらたかなこのお堂参り、またの名をソープランドともいう。

 福祉センターの主催するお見合いパーティーに参加して、ひとりの女性とめでたくカップルが成立した、かに見えた。がしかし、つい先日もヨガを学びにインドまで旅行してきたというその彼女が熱弁することには、「信仰を持てば、勇気が湧いて来ますよ。世のため人のために生きる勇気です」。何のことはない、ニューエイジ新興宗教の勧誘商法だった。

 

 と、ここまでのノンフィクション・ノヴェルとしての「身分帳」は、ある意味では、文庫化にあたって収められたその後日譚としての「行旅死亡人」の前段に過ぎなかった。

 まさかこれをネタバレと咎められる筋合いもなかろう、単行本の上梓から間もなくの平成211月、山川一のモデルを担った田村明義の死亡の報を筆者は受ける。福岡のアパートで脳内出血により孤独死、事件性はない。入居にあたっての保証人を務めていた関係で佐木に連絡が届く。

 田村は当時も生活保護を受けており、親戚縁者の身寄りはなかった。担当のワーカーによれば、規定の手続きに従って、荼毘に付された遺骨は短期間中央福祉事務所の預かりとなり、その後無縁仏として寺に納骨されるという。

 しかし筆者は、どうにも田村の通夜、葬儀のひとつもあげずにはいられない。戒名がないというのも不憫と思えてならない。役場のフォーマットではなく永代供養の手はずも整えずにはいられない。これらの費用はもちろん佐木が負担する。霊柩車もわざわざ特別料金のキャデラックをチャーターした。見栄っ張りだった故人を送り出すにふさわしい、そう思うと頼まずにはいられなかった。

 そもそもが赤の他人である。印税のキャッシュバックとしての性質は多少なりとも含まれるにせよ、佐木自身が特に信心深いということもなかろう。現実には、所得の逆分配をもってこの世にさらなる地獄を広げるということ以上に、宗教者とやらに一円以上の金を投げつけることの意味などひとつとしてない。公衆衛生上の配慮を越えて、葬送など別にする必要などない、業者を焼け太らせて何になる、でもせずにはいられない。ここに本書の真骨頂がほとばしらずにはいない。

 奇しくも田村は言っていた。「初めて会ったとき、『どうせ死んでも無縁仏として葬られて終るが、それではあまりにも悔しいから、自分のことを一冊の本にしてほしい」。かくして盛大なる生前葬として『身分帳』は上梓された。これ以上ない送り出し方を既に仕切った筆者が、それでもなお、僧侶を雇っての宗教儀式を行わずにはいられなかった。

 東京を離れるに際して、田村――この場合は山川と書くべきか――が知人から贈られていたアイテムがある。

 おもちゃの手錠。かつて保護司をしていたというその人物の父の形見だった。保護観察で担当していた元受刑者が仮釈放に際して、我慢を自らに言い聞かせるため自室に飾っていたものだった。

 たかが模造玩具と分かっていながら、しかしそのタリスマンを山川に託さずにはいられない。

 その彼はかつて山川と激論を交わしていた。

 

「経緯はどうあれ、人ひとりの命を奪ったことの意味を考えなきゃ」

「そやけ裁判でも、殺したことは申し訳ないと言うた。ただ、冥福を祈る気持ちがあるかと聞かれて、全然考えたことはないと答えた。俺は宗教を持ち出されると、カッとなるっちゃ」

「冥福を祈るのは、宗教とは関係ないよ」

「そう? 何か嘘っぽい気がする」

 

 山川と彼を隔てるもの、田村と佐木を隔てるものは、ここに「嘘」を見てしまうか、否か、「冥福を祈」れるか、否か、なのかもしれない。このことが「人間に対する信頼感と愛情」の有無を分け、娑婆と刑務所を分けている、のかもしれない。

 そんなことを連綿とテキストは紡ぎ続けていた、ような気がする。

 死後の世界などない、けれども死後にも世界は続く。

 

 Post Scriptumとして、映画化としての『すばらしき世界』についての覚書をここに記す。

 時代環境の変化を巧みに織り込んでアップデートされたこの作品において、個人的な記憶の限り、ことごとく捨象されていた要素が、こうした宗教をめぐる描き込みだった。

 西川美和のアンテナの外側にあったという以上の意味は、そのことにあるいは一切ないのかもしれない。しかしこれら「嘘」のことごとくがオミットされたという事象そのものが、最大のアップデート点なのではなかろうか、そう思えてならない。ゆえに、映画の中の役所広司は、実のところは何が変わることもないまま、死というかたちでしかクライマックスを迎えることができない。

 あちらもこちらも何もなく、「嘘」のボーダーラインが消滅した社会を生きる、孤独に打ち震えて生きる、自らの臆見の無謬性を振り回して生きる、自壊へ向かう世界を生きる、紛れもない、山川はすべて近代の果てを生きる人間を映す。

 

 ドブに落ちても 根のある奴は

 いつかは蓮の 花と咲く

男はつらいよ

 

「根」のない沼に蓮華は咲かない。

 

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