What's the Big Idea?

 

 本書は、アメリカ・ニューヨーク市にあるブロンクス動物園(正確にはWCS:Wildlife Conservation Society)で、展示グラフィックアーツ部門の第一線に立つ本田公夫さんと、聴き手である書き手の川端裕人によるコラボレーションだ。(中略)

 本田さんが主にかかわってきたのは「解説展示」だ。日本の動物園では、あまり重きを置かれていない分野だからピンと来ないかもしれない。誰もが知っている具体例を挙げれば、種名や生息域を示すサインもその一部だ。

 ただし、そこから想像されるよりもはるかに上、はるかに広い領域を担っている。ひと言で言うなら、展示意図に応じた体験を来園者にしてもらうためのすべてが責任範囲だ。展示ができる前のコンセプトの段階からしばしば議論をリードする立場でかかわり、展示全体の空間構成(景観や建物を含む)を決める段階にも関与していく。その上で、動物がいる空間と来園者が通る空間の一体感を保ちつつ、展示コンセプトに応じて開発したコンテンツを、サインや立体物や映像、音響などあらゆるものを使って展開していく。動物の解説サインも、そのひとつだ。単に、種名を書いて張り出すのではなく、全体に溶け込んで、なおかつ、展示意図にそぐったデザインのものでなければならない……などなど。

 というふうに、いきなり説明しても、それが実際どういう仕事なのかはやはり想像しにくいままだろう。本書では、このような「見せる」ことを突き詰めた動物園の仕事を詳しく追うことで、ぼくたちにとって「新しい景色」を浮かび上がらせる。

 

「ならば、ザ・ビッグ・アイデアという概念をご存知ですか」

 本田曰く、「伝えるべきメッセージをなるべく簡潔なひとつの文にまとめたのがビッグ・アイデアです」。連れてくる動物を選択するにも、空間を設計するにも、説明文を作成するにも、どういった価値判断に基づいてそれらのコマンドを実行していくのか、それを規定するために各人に共有されるべきものが「ビッグ・アイデア」と呼ばれるらしい。それはたぶん、多くの企業で言うところのミッション・ステートメントに限りなく似る。

 例えば「マダガスカルMadagascar!」における「ビッグ・アイデア」は、〈美しく驚きに満ちた土地であるマダガスカルをモデルとして見た時、そこでの自然環境保全のあり方は世界中で応用可能であり、また実際に使われてもいる〉。これを実践に落とし込むとどうなるか。

 この孤島に固有の生態系を子どもたちにも分かるように設定されたキャッチコピーが“Only In Madagascar”、スクリーンに映し出されるフラッシュ動画のようなショートフィルムでは、このフレーズとともにさまざまな固有種を矢継ぎ早に見せていく。一種ずつを記憶してもらうことなど目的とはしていない、あくまでマダガスカルが「美しく驚きに満ちた土地」であることが直感的に刷り込まれさえすればそれで十分なのだ。

 そうして別のスクリーンでは、「自然の驚異を印象づけた上で、その熱帯雨林が伐採されたり燃やされたりしてしまったりする脅威、つまり危機、Big Threatを訴え、それでも保全の活動でやがて焼け野原は再生してい」くプロセスを見せる。まさに「マダガスカルをモデルとして見た時、そこでの自然環境保全のあり方は世界中で応用可能であり、また実際に使われてもいる」ことを具体的に落とし込んでいる。さらにその仕上げとして、最後のゲートをくぐった先の「保全への通路」に置かれているのは一枚の鏡、「護ることができるのはこの人たち」という矢印とともに映り込むのはもちろん観客自身の姿。

 本田は言う。

「日本ですと、動物を飼育して見せられる環境を作ればそれで展示ができると思われていることが多いですよね。これは、アメリカでもそうなりがちです。でも、野生動物を生息地から遠く離れたところでわざわざ飼育して、高いお金をかけて展示を作るんですから、それだけではいけないんです。数多くの動物種が絶滅の危機に瀕してるということと、野生動物を人工的な環境下で飼育展示するには個体の福祉の犠牲を伴う可能性があるということ、この2点を考えた時、ただ人間の勝手な消費物として野生動物を飼育展示することはもはや正当化できないと考えています」。

 

 こうした「ビッグ・アイデア」ベースの構築に対しての反対意見というのは、いかにも想定できる。そんな人間中心のフレーミングの外側にある野生を見せることこそが動物園の存在意義なのではないか、云々と。

 それに対しての反論は極めてシンプルに用意できる。すなわち、無秩序なモザイクなんて誰の記憶にも残りやしない。

 例えばそれは歴史の教科書でも考えてみれば容易に了承されるだろう。一定のストーリー・ラインに基づいて、これこれのターニング・ポイントを握っているキー・パーソンとして特定の人物や地名が抜擢されるのであって、そうした因果の一切を欠いて固有名詞を暗記しろと押しつけられても、そんな苦痛は真面目な劣等生を量産するという以上の機能を帯びることがない。これの伏線としてこの事件があって、そのことが後に別の出来事につながる、そうした脈絡を欠いてしまえば、年号などただの4桁コード番号にしかならない。音楽室に貼り出された肖像画としては何となく知っている、けれども当人の曲をひとつとして聴いたことがない、そんな人名記憶にいかなる教育的意図があるというのか。

 そうしたとりあえずの通説に対しての疑問が可能になるのは、あくまで一通りのセオリーを踏まえた後での話。目的効果基準を欠いた昭和の猛練習が今となっては筋量不足の草野球のオッサンレベルのプレイヤーしか作り出せなかったのに限りなく似て、論理もなく徒手空拳を振り回したところで、何が見えてくることもない。

「ビッグ・アイデア」すら持たない動物園が、つまりは世界がいかにどうしようもないか、ブロンクスに学ぶべき第一は、生態系云々を言う前に、まずはそのことなのかもしれない。

 なるほど確かに、大半の人間にとって「ビッグ・アイデア」なんてものはあってなきがごときものでしかなくて、「知識を与えられるだけでは、行動は変えられない」のかもしれない。何が可愛いのかもよく分からない客寄せパンダに釣られる彼らは所詮、感情マーケティングに動員されるためだけに生まれてきた計算可能、計算不要な統計的関数でしかないのだから、それはそれで仕方がない。

 しかしそれは、彼らに対して迎合すべき何らの理由を与えない。動物園が知識を放棄すべき何らの理由を与えない。「知識を与えられる」ことで「行動は変えられ」る、そうして変われるヤツだけが変わればいい、ただそれだけのことにすぎない。

 

 にもかかわらず、動物たちはたかが人間の浅知恵をしばしばいとも簡単に凌駕してくれる。

 ブロンクス内の「コンゴ」での一コマ、「ゴリラが水の濠を渡らないというのは、たしかに設計したときの常識でした。ところが、ここで生まれた若い個体の中には水が張ったところに入るものも出てきたんです。それとほとんど同じ時期に、まさにWCSの研究者が、野生のゴリラが水につかる行動や、棒を使って水深を測るような行動を見出して、野生でもやっているのだとわかりました」。

 専門家集団がよってたかっても、展示の動物の一挙手一投足を説明できるわけではない。それどころか、シーナリーの事前設計通りに植物の枝葉ひとつを仕立てることすらままならない。現に、動物園は「ビッグ・アイデア」の向こう側で営まれているのである。そもそもにおいて、他人のメッセージについて論理を追って受け取れるほど、人間のリテラシーなんて発達しちゃいない。

 そんなこんなで、世界はでたらめにできている、動物園もまた、そうあるように。

 

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