夜空ノムコウ

 

 私の出身地、そして現居住地は、東京都品川区の戸越銀座である。祖父の代から1997年まで、私の家族はここで町工場を営んでいた。……

 これから私は延々と、五反田界隈の話をする。……

 五反田は、東の銀座や新橋、西の渋谷や新宿へもアクセスがよく、最近では東海道新幹線が発着する品川にも近い。山の上は旧大名屋敷が、金持ちが住んでいる。交通至便な場所なのに、谷のほうは意外と家賃が安い。なぜか。五反田の対外的イメージが悪いからだ。

 一部の人にとっては五反田の評判を貶めているように見えるのが、五反田の風俗店の多さである。なぜか。ここに工場労働者が多く、一大歓楽街だったから。

 なぜ工場労働者が多かったのか。いまはかげもかたちもないが、ここにかつては工場がひしめきあっていたから。

 つまり五反田の費用対効果の高さの根源にあるのが、かつてここに存在した工場労働者なのである。

 そしてそんな五反田に1916年、13歳でやってきたのが、私の祖父、量太郎だった。

 五反田を五反田たらしめている特色を考えていくと、私の場合はどうしても祖父の存在に行き着いてしまうのだった。

 

 筆者が見立てるに、世の中にはとりあえず二種類の人間がある。

 一方は「忘却原動力系」、すなわち「とにかく過去をどんどん消去し、前だけを向いて生きる人……忘れっぽいというより、忘れることを未来に向けた原動力とする、といった趣だ」。

 そして他方に、「記憶冷凍保存系語り部」がいる。「人生で見聞きした様々な場面を、カメラのシャッターを切るように次々と切り取り、まるごと記憶し、そこになんらかの物語を発見して、おもしろく語れる人」。

 続けて筆者の観察によれば、「おもしろいのは、家族の中に語り部系人物が一人でもいる場合、その近くには必ずといっていいほど、忘却系人物が生息していることだ。家族の成員が全員、過去に拘泥していたら、経済活動がストップしておまんまが食えない。しかし、全員が忘却したら、生き延びるための知恵や技術が蓄積されない」。

 そして祖父・量太郎は典型的な「語り部系」だった。もっとも彼は既に他界して久しい、筆者7歳のときのことだという。しかし彼は手記を残していた。胃がんに蝕まれ日々やせ衰えゆく肉体に死期がそう遠からぬことを悟ってか、彼は便箋とノートにその記憶を刻んだ。もっともタイピングで文字起こしすると、それはA4用紙にしてほんの24枚に過ぎないものだった。

 その短い紙幅にあってすら唐突に話題の切り替わる「祖父の手記」を時が流れて筆者は改めて読み返す。そしてうっすらと気づく、なぜに彼が限られたその時間を書くことに費やしたのか、と。「祖父は年端もいかない私たちに向け、なんとか死ぬ前に、生き残りの術を伝授しようとしていたのではないか」と、戦火を潜り抜けた「死ぬ方法ではなく、生きる方法」を遺言にしたのではないか、と。

 

 東京への絨毯爆撃には、戦勝国側なりの理由づけがあった。我々は民間人を狙ったのではない、あくまで工廠を叩いたに過ぎない、と。量太郎の営んだ星野製作所もまた、下請けの末端として何かしらの軍需へと動員されていた。まさか彼は自らのパーツが最終的にどこで何に用いられるのか、という機密情報など知らされていなかったに違いない、しかし米軍に言わせれば、町工場すらも工廠とみなすに足るものだった、あくまでそれは形態として分散しているに過ぎない。

 そして五反田には、二度にわたって、B29よりの焼夷弾雨あられと降り注いだ。一度目は、1945310日のいわゆる下町大空襲。そして二度目が、524日の城南空襲。とりわけ後者においては、単位面積当たりで前者の2倍もの焼夷弾が投下された。

 ところが死者の数を比較すれば、後者の方が桁違いに少ない、資料にあたった筆者はそのことに衝撃を受ける。疎開もさらに進んでいた、既に被害も出ていた、こうした要件のみをもって双方のギャップを説明することはできない。

 ごくごくシンプルなその答えは、他の「語り部系」の伝承の中にあった。

「逃げたことで助かった」。

 消火作業に従事しないことは当時においては、防空法が定める、立派な犯罪行為だった。緊急避難の法理など、まさか軍部が認めることはなかっただろう。非国民と謗る声もあっただろう。

 けれども彼らは、東京大空襲を踏まえて、逃げ出すことを決断した。そして被害を食い止めた。

 

 実は、量太郎はこの夜、戸越銀座にはいなかった。手記はその理由を教えない、ただし家族を疎開させていた越谷を訪れていたことで、彼は直撃を免れた。ラジオで報を聴いた彼は、翌日単身で自宅兼工場へと向かう。無論、「住居も工場もあとかたもなく焼けて居た。何時かは焼けるものとは思って居たが、焼けた機械だけが四、五台元の位置に並んで居た」。そして彼が次に取った行動は、元請けへの連絡だった。漂う文体はどこかサバサバとしている。単に時の風化がそうさせたのではない。「もう焼け出される心配はない――」、かくして奈落の底は打たれた。

 そして奇しくも、ノートのページはここで絶筆を迎える。

 

語り部」の素養をどうやら引いたらしい筆者には、祖父をめぐる確かな記憶があった。

「杭を打て」、そう彼は幼き孫に向けて説いた。「ここが焼け野原になったらな、すぐに戻ってくるんだぞ。……/そいでもって、すぐ敷地の周りに杭を打って、『ほしの』って書くんだ。いいな」

 ところが他の家族は誰もそのことを覚えてはいないという。

 ただし、このエピソードには続きがあった。

 本書のベースはweb上の定期連載、同じく「語り部」より「杭を打て」と伝え聞いた読者のひとりが、鮮やかにその記憶を触発されて、そして筆者とコンタクトを取り、そのやりとりがテキストとなる。もっともその人物の血脈にとってのそれは専ら、奪われた側の怨念として引き継がれていた。

 たとえ悲哀の黒歴史であったとしても、至近の目黒の地をめぐる土地の記憶を氏は筆者と分かち合わずにはいられなかった、自らを一家の「語り部」とせずにはいられなかった。

 杭を打て、悔いを討て。焼け野原のただ中で、記憶と記憶が繋がることが時に誰かの糧となる。

 

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