HIGH&LOW

 

 いうまでもなく、近代日本の鉄道は国鉄がすべてではなかった。……

 なかでも大阪を中心として発達する関西私鉄は、昭和大礼が行われた当時には、すでに関西地域で国鉄以上の路線網を有していただけでなく、国鉄に対抗する思想をもとに、それぞれの沿線に独自の文化を築いていったという点で際立っていた。国鉄が……国民統合の装置であったとすれば、当時の関西私鉄には「官」から独立して地域住民の新しいライフスタイルを生み出す文化装置としての側面があったのである。……

 本書では、……もう一つの近代日本の鉄道である、明治後期から昭和初期にかけての関西私鉄に光を当てる。この関西私鉄というフィルターを通して浮かび上がってくるのは、同時代に立ち現れてくる「帝都」東京とはまったく異なる、「民都」大阪の姿である。……

 東京では宮城をはさんでその東側に東京駅が建てられ、西側に明治神宮神宮外苑多摩陵などが作られるこの時期、大阪では私鉄会社が互いに競い合うようにして、それぞれの沿線に住宅地や遊園地、歌劇場、野球場。デパートなどを作り、自立した生活文化圏が確立された。しかし他方で、大阪に多大な関心をもつ天皇が即位する昭和に入ると、大阪にもしだいに「帝都」の影が忍び寄る。天皇の記憶を留めるモニュメントが建てられ、昭和大礼の光景が、大阪の内部でも見られるようになる。そして「民都」の没落を象徴する決定的な事件が起こる一方、忘れられていた古代難波津(大阪の旧名)の記憶がよみがえるのである。

 

 一目瞭然、見る者を圧倒せずにいない。

 バベルの塔の昔から、ピラミッドの昔から、万里の長城の昔から、人は権能の象徴を建築の豪奢に仮託せずにはいられなかった。カノッサの屈辱もかくや、カトリックにしてみればバシリカやドゥオーモの高さこそが、政治権力に対して無二の仕方でマウンティングを具現した。仏教におけるそれはさながら五重塔だった。

 バカと煙は高いところが好き、後の世においてそれらが無用の長物の象徴としてあざ笑われていることなど分かり切ったその上で、人々は現に今日もタワーマンションを目指さずにはいられない。

 

 かの小林一三が高らかに謳い上げたことには、東京では「あらゆる有名な会社事業は大概政治の中毒を受けてゐる。……その点に行くと大阪はまことに遣りより。何ら政治に関係して居らない。しかも政治に関係して居らないと殆ど政治といふものと実業といふものが分れて居るためにさういふ心配は少しもない」。

 その「民都」大阪の象徴が、鉄道だった。

 そもそもにおいて鉄道とは、「国内の各都市や各地方が、首都に向かって収束する」というその意味において、「中央集権化のメディア」だった。分けても東海道本線ともなれば、今日に至るまで紛う方なき日本の大動脈である。

 ところが1910年のこと、箕有電軌の開設をもって、「帝都」を向こうに「民都」の優位を知らしめる衝撃の事態が訪れる。「往来ふ汽車を下に見て」、梅田を発ったその電車が「すぐに国鉄大阪駅や、そこを往来する汽車を見下ろす」構図がここに完成のときを迎えたのである。

 小林に牽引されるように、関西の私鉄各社は単に電車を走らせることのみにて満足を得ようとはしなかった。住宅も沿線で、余暇のレジャーも沿線で、デパートも沿線で――そうして彼らは鉄道省国鉄が想像だにしなかっただろうそれぞれの差別化戦略をもって「私鉄王国」を広げていった。その時代、「実業」の最高の言語とは、土地であり、レールであった。

 

 しかしこのヘゲモニーを根底から覆す存在が、やがて大阪の地に舞い降りる。かつてその「民都」を「自治生活に徹底した土地」と讃えた、昭和天皇その人である。1929年の来阪に際して彼は時の知事に向けて言った。「将来官民協力奮励して、一層の発展を期するやうに」。

 時を同じくして、国鉄大阪駅では高架化の工事がはじまっていた。そもそもが無理筋のはずだった。なにせ先に述べた通り、既に阪急の高架が国鉄の上を走っているのである。しかし、鉄道省はその無理筋を押し通した。「交差している阪急の高架線を新たに敷設する国鉄の高架線の下にし、地上戦にせよという通達であった。しかも、……その費用はすべて阪急側で負担せよという条件が付されていた」。これを受け入れれば、「『私鉄王国』が、関西地域に迫ってきた『帝国』の秩序に完全に包摂されることを意味しかねなかった」。

 いや、まさにこのクロス問題の屈辱にこそ、「帝国」を「帝国」たらしめるロジックが凝縮されていた。東京発の列車が九州を経由し、海峡を超えて大陸、満鉄へと延びる。この国家百年の計を前にしては、たかが「私鉄王国」の雄の抵抗など虚しいものだった。情報とインフラのメディア・ミックスをもって手に手を取って「民都」を作り上げてきたその一翼であった新聞が、今や鉄道省のスポークスマンも同然に「癌」とすら罵って阪急バッシングの急先鋒に立つ。勝負は決した。

 こうしてこの大大阪の立役者は「創業以来最も頼りにしていたはずの、大阪の民衆自身に裏切られ」その地を追われた。東京に拠点を移した失意の小林は以後、東京電燈(現東電)の社長や商工大臣を歴任することで、皮肉にも「帝国」支配の走狗たることを余儀なくされた。

 

 この高架をめぐるクロス問題は、もうひとつの交錯を促さずにはいなかった。

19338月のクロス問題の解決とともに、近代的な合理精神や反官の思想を貫く旧淀川以北のキタの風土、すなわち阪急沿線の風土が後退し、それに代わって古代以来の王権の歴史に彩られた旧淀川以南のミナミの風土、すなわち南海や大軌沿線の風土が、急速に浮上してゆく」。数多の古墳群が裏付けるように、「近代の『帝都』東京に対する古代の『帝都』大阪という意識を市民の間に呼び起こすようになる」。

 それと前後するように、「1932年の行幸で最も注目すべきは、昭和天皇が初めて関西私鉄に乗っていることである」。訪問地が国鉄の運送網を外れていたわけではない、もちろん国鉄のお召列車は軌間の違いゆえに乗り入れることもできない、それなのに私鉄ルートが選択された。理由は簡単だった、まさに「民都」のかくある所以、国鉄よりも速かったからである。

 

 さらに、これらと時をほぼ同じくして1931年、「民都」大阪と「神都」伊勢が一本につながる。それまでは乗り継ぎを重ねて約6時間を要していたところ、大軌(現在の近鉄)が上本町と宇治山田の間をわずか2時間15分で結んでしまったのである。

 大軌の「精神報国」の念はそれだけでは飽き足らず、遂には名古屋をも射程に入れた。これをもって「大阪と、神武天皇を祭神とする橿原神宮伊勢神宮、それに熱田神宮という、皇室に関係の深い三つの神宮を結び、鉄道による新しい『聖地巡礼ルート』」が開拓される。言い換えれば、皇紀二千六百年を控えて、「『私鉄王国』の中心が『帝国』の精神的中心と一つになり、大阪と『神都』、さらに『神都』を含む三つの『聖地』が、一つの線路で結ばれたことを意味していた」。

 そうして1940610日の天皇神宮参拝を迎える。それぞれ外宮、内宮の参拝スケジュールに合わせて、午前1112分と午後154分には、日本中の津々浦々で人々が「神宮のある伊勢の方角に向かっていっせいに頭を下げた」。

「ここに、この行幸の特異性が最も鮮やかにあらわれている。それまでの行幸では、……天皇の視線は、列車に向かって最敬礼する人びとや、それらの場所で万歳を叫ぶ人びとに向かって注がれていた」。ところがこのときに限っては「天皇の視線は、このような『臣民』に向かって注がれていたわけではなかったのである。

 ではこのとき、天皇は何をしていた(と思われた)のか。一言でいえば、皇祖神のアマテラスや豊受大神に対して、紀元二千六百年を祝うとともに、長期化する日中戦争の勝利を祈るべく、それらの神々の前に頭を下げていた。つまり、アマテラスや豊受大神の前では、『現人神』であるはずの天皇といえども一人の臣下と化していた」。

 文明開化の鉄道輸入をもって火蓋が切られ、上下をもって鎬を削った「帝都」と「民都」をめぐる相克の歴史がかくしてここに止揚される。

 この日をもって、「東京でも大阪でもなく、『神都』伊勢こそが、『私鉄王国』を包摂した『帝国』の新しい中心となった」。

 

  このエピローグの先を勝手に書き足してみる。

 大日本帝国の終焉を告げたのが、鉄道の高架など及びもつかぬはるか高みよりもたらされたのも必然だったのかもしれない。

 19458月、広島と長崎の上空にて、まるで太陽を擬製するように、リトルボーイとファットマンの一閃が炸裂した。そしてその月末、ダグラス・マッカーサーがヘリコプターで厚木の地へと降り立った。そもそもが戦争になどなるはずもない科学力の圧倒的な格差を誇示するように、所詮が鉄道をめぐる小競り合いなど井の中の蛙の戯れでしかなかったことを告げ知らせるかのように、アメリカははるか天高くから瞬く間に日本を飲み込んでいった。

 そしてとどめは、天皇との会見時のあの写真だった。身長、肩幅、ポーズ、風体――その何もかもが現人神に対する元帥の威容を証明していた、それはまさに阪急が国鉄を見下ろしていたあのときと全く同じ仕方で。

 そして今もなお、私たちは「帝国」のレールのその先にいる。

 

 

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