個人的な体験

 

 四年前、僕はある小説を書いた。

 それは自分が高校生の時に起きた猟奇殺人事件を元ネタにしたものだった。……それは本当に衝撃的な事件で、日本社会はあのとき確実に揺れた。

 もちろん僕も。……

 しかし編集部からNGが出た。

 原稿を修正しろというのだ。……

 さっくり要約すれば、「人を傷つけない文章に直してほしい」とのこと。……

 実際にあった事件について書いた文章から、人を傷つける箇所をなくせというのは、「本当にあったできごと」をなくせと云っているのと同じだ。……

 正直、かなり失望したけれど、トラブルがあったらダメージを負うのは僕だし、そもそも版元の云うことは絶対なので、僕は表面的には怒ってみせながら指示にしたがった。いくつもの固有名詞をカットして、わざとらしい展開を作り、架空のキャラクターを登場させることで、原稿はなんとか雑誌掲載された。

「でもそれじゃ、全然別の話になるんじゃない?」

 そのとおり。僕の個人的な体験はよくあるフィクションになった。

 そのつづきを書けだと?

 

 もっとも、令和の世は「つづき」を書くための素材に事欠くことを知らなかった。

 元号が変わって間もなく、ひきこもりの51歳がスクールバスを待つ子どもや保護者をナイフで襲撃し2人を死亡させた上でその場で自殺。その数日後には元農水省事務次官がひきこもりの息子を刺殺、その動機について父親は、先のケースと同様の凶行を我が子が引き起こすことを懸念して、との供述をおこなった。7月の京都では、アニメ制作会社への放火により36名が死亡した。

 不特定多数の対象を殺めたという点では同じはずなのに、彼ら令和元年のテロリストをめぐる世論は1997年のそれとはおよそ対照的なものだった。「僕がかつて執着していた14歳の少年は、その年齢と事件の特異性もあって、こまったことにたくさんの信奉者を生み出したが、いっぽうで中年の犯罪者に対する世間の反応はいつも冷たい。……フィクションの世界ならともかく、実際の『シリアルキラーおじさん』は魅力ゼロ」。そんなことは承知し切った上で、38歳の半ば専業主夫化した小説家があえて素材に取り上げる。

「どうせ死ぬのなら、華々しく散りたい。

 クソのような人生、一度くらいキラキラ輝かせてみたい」。

 あくまで「僕」としては「小説用にわかりやすく作ったキャラ」としてそう独白させたつもりだった。

 ところが、このウェブ連載を好意的に受け止めた世間は、これらの描写を小説として読み解こうとはしなかった。あくまでプライヴェートな手記として面白おかしく消化してみせた。

 そのことに「僕」は苛立ちを禁じ得ない。ジャンルを取り違えられたことではない、「どうしてだれも僕の心配をしなかったんだ!」というそのことに。エッセイだと思いたければ思えばいい、でもだとしたら「作中でくり返される『自殺したい』という僕の絶叫をどうしてスルーした? 死にたがっている人間を前にして、なんのリアクションもなし?」希死念慮を外へと向けるか、内へと向けるか、そうして生まれるシリアルキラーと一脈ならず通じてしまう「エッセイ」の書き手である「僕が死んでも何も感じない?/あのシリアルキラーおじさんたちのように、死ぬならさっさと、『一人で死ね』と?」

 

 エッセイなのか、小説なのか。言い換えれば、リアルなのか、リアリティなのか。

『青春とシリアルキラー』は、今さらながらの古典テーマに沿って今さらながらのメタフィクションを展開する。

 作中の出来事、「僕」は家族旅行に向かう電車内でバッグを忘れて、ひとり遺失物取り扱いの窓口を訪ねる。職員に説明を試みるもしどろもどろ。フィクションならば往々にして、家族とはぐれることを正当化するためのツールとして、そしてたいがいが別の誰かと出会うためのフラグとして、この忘れ物というハプニングが組み込まれる。もちろん、リアルの世界ではたとえ何かを落としたところでそんなリアリティ・ゼロの運命的な邂逅イベントが発生することはない、そしてこの作品でも起きない。

 テキスト内でのあえての機能といえば、あまりにテンプレ的なAttention Disorder描写に過ぎない。もっとも本書においてこの手の、何かに気を奪われて肝心なことを失念したというような記述は他にも織り込まれていて、屋上屋を架している感は否めない。

 しかし現実のADHD持ちは――私を含めて――屋上屋を架すように同じミステイクを反復する。凡庸なフィクションがやらかすような、あってもなくてもいいようなキャラづけ記号とは違う。気は抜くものではない、抜けるものなのである。そしてその度、死にたくもなる。

「僕」というキャラクター造形をめぐるリアリティは紛れもなくそこにある。もっとも、それが書き手の実生活でリアルに発生した出来事なのかはまるで別の話である。ところが、読み手は一般にそこにリアリティがあればあるほどに、リアルとの同一化を求めようとしてはばからない。

 

 それなのに、「僕」が綴る「ぼんやりとした不安」にも似た何かを読者たちは一向に感知しようとはしなかった。

 とはいえ、その理由は明快である。

「機会はいつでも、身近なところにある。ナイフはすっかり研がれている。僕はそんなナイフを見て、自分と他人のどちらに突き刺すべきかを考える。答えはすでに出ている。臆病者の僕はそもそもナイフなんて使わないし、他人を殺すよりも自分を殺すほうがいいし、自殺するときは首吊りってむかしからきめているから」。こうした記述に、思春期をこじらせた構ってちゃん女子高生にすら劣って、誰ひとりリアリティを見出すことができなかったからである。

 言い換えれば、「ああそうか。きみは今、幸せなんだな」のことばにこそ、リアリティを汲み取ったからである。アメリカの銃乱射などを調べてみても同じこと、アノンや陰謀論者と同様に、孤独に蝕まれた統合失調症のテンプレートという他に読み解くべきものを何も持たない「おじさんシリアルキラー」たちを投影しようもないリアリティを「僕」に重ねてしまったからである。

 

 オーバーレートにも程があるなとは思いつつも、この作品を読みながら、ひとりの小説家の影がちらつくのをどうにも抑え切れなかった。その名を大江健三郎という。

 彼はほぼ生涯にわたって、愛媛の谷間の村で過去に起きたというそのできごとを執拗なまでにかたり続けた。同一のモチーフを反復する、ただし伴奏させる古典作品を次から次へと変えることで、チェンジリングを図り続けた。

 語ることはすなわち騙ること。あるいはリアルですらないのかもしれないそのモチーフが小説という手法を通じて、一切がスクリプトで記述可能で記述不要なリアル(笑)とやら、リアリティ(笑)とやらのそのはるか彼方へと変身を遂げていく。

 本書は、「政治少年死す」ほどに「おじさんシリアルキラー」への没入を示すこともない。『懐かしい年への手紙』とは異なり、ダンテ『神曲』を読まされたところで思うことといえば、「地球の反対から宇宙へと向かって星をめぐりつつ愛のパワーでハッピーエンドなのだマジで」程度でしかない。

 クライマックス、「僕」はお約束のようにとあるしくじりをやらかす。

「妻は段ボール箱から僕へと視線をスライドさせると、笑った。

 そうだった。

 妻はこういうときに笑ってくれる人だった。

 僕は無限に叱られつづけ、無限にゆるされつづけている」。

 この四行にどれほどのリアリティが仮託されようとも、そんな「愛のパワーでハッピーエンド」の赦しなど、リアルにおいてはこれまでもこれからも決して訪れることはないのかもしれない。しかし、文学という営みの内部でならば、書くことで、そして読むことで、リアリティさえも振り切って、ベアトリーチェを降臨させることができる。

 この至福を知りながら、どうして「魅力ゼロ」のリアルを語る必要が、騙る必要があるだろう。

 

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