将来之日本

 

 突然、戚夫人の姿を、あの、古代中国の呂太后の、戚夫人につくした所業の経緯を、私は想い出した。手足を斬りおとし、眼球をくりぬき、耳をそぎとり、オシになる薬を飲ませ、人間豚と名付けて便壺にとじこめ、ついに息の根をとめられた、という戚夫人の姿を。

 水俣病の死者たちの大部分が、紀元前2世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経験をたどって、いわれなく非業の死を遂げ、生きのこっているではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられなければならないか。独占資本のあくなく搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうかも知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代の呪術師とならねばならぬ。

 

 とある患者の解剖所見は語る。

「ノウショケンハヨクコレデセイメイガタモテルトオモワレルホド荒廃シテイテ、ダイノウハンキュウハ――大脳半球ハアタカモハチノス状ナイシ網状ヲテイシ、ジッシツハ――実質ハホトンド吸収サレテイタ。小脳ハチョメイニ萎縮シ灰質ガキワメテ菲薄ニナッテイタ。シカシ脳幹、セキズイハヒカクテキヨクタモタレテイタ」。

「近代の呪術師」を宣言する「私」の同化すべき患者たちにはもはやことばを吐き出すことなどかなわない、まさかそのことを「私」が分かっていないはずもない。

 その点に鑑みれば、本書が被害者の代弁を謳った政治利用の一形態である、とのおなじみの批判には一理あることくらい、「私」は予め十も承知しているのである。そのあり方というのはむしろ、動物の擬人化にすら近しいのかもしれない。

 しかし、である。例えば理不尽な暴走運転の事故により死線をさまよわされる羽目に陥った患者をめぐって、各種脳内麻薬の作用によって痛みを感じていないどころか、実は多幸感に満たされているはずだ、という科学的に信憑性の強いファクトを説いたところで、それが何の慰めになるだろう。脳内麻薬の分泌をアシストしてやったのだから加害者は免責されるべきだ、むしろいくら感謝してもし足りないほどだ、などと誰が思えるだろう。当人がたとえ臨床的には比類なき至福の境地にあろうとも、不条理な仕方で突然に瀕死へと導かれた痛々しき肢体の中に、傍らの生ける者は怒りの無念を読み解かずにはいられない。それが誤読に過ぎぬことなど知悉した上で、それでもなお生ける者は生ける者に向けて共有可能なことばを編まずにはいられない。

 所詮傍観者でしかありえない他者が別なる他者のために共感のことばを紡ぎ出す。それは確かに一面、“犬吠え様の叫び声”しか発することのない、そしてもはや外からの声を判別することもない当事者を置き去りにしたアプローチではあるのかもしれない。しかしそもそもからして語りは騙り、「私」のかたりは代弁ではない、なくていい。未来に同じ惨禍を繰り返さないために、生ける者同士が「近代の呪術師」を媒介に誓いを立てる。「魚のような瞳と流木じみた姿態」の犠牲者が再び生み出される悲劇を防ぐために、彼らの存在を忘却の淵から救い出すために、「私」はあえて「決して往生できない魂魄」を僭称する。もはや脳の機能を打ち砕かれた「魂もなか人形」には内なることばなどたぶんない、そこにはただ、読む者と書く者との間に取り結ばれる共犯関係のことばだけがある。

 

 とにかくひたすらに犠牲者を楯にして呪詛のことばを並べ立てただけの文体ならば、あるいはそこに手に取るべきものなどひとつとしてないのかもしれない。

 限りなく怨念に満たされながら、「私」はそれでもなお、美しい郷里、天草の風土を折々に描き込まずにはいられない。

 冒頭間もなく吸い寄せられる。

「村のいちばん低いところ、舟からあがればとっつきの段丘の根に、古い、大きな共同井戸――洗い場がある。四角い広々とした井戸の、石の壁面には苔の陰に小さなゾナ魚や、赤く可憐なカニが遊んでいた。このようなカニの住む井戸は、やわらかな味の岩清水が湧くにちがいなかった。

 ここらあたりは、海の底にも、泉が湧くのである」。

 かつてこの海は、とりわけボラ漁で知られた。「かかり出すときは一人では間に合わない。家族じゅうが食事をとる間もないほどつぎつぎに引くから、糸で指の関節が切れるほどにかかってくるのである」。そのボラがさっぱり釣れなくなる。「ボラのみならず、えびも、コノシロも、鯛もめっきり少なくなった。水揚量の急激な減少にいらだった漁師たちは、めいめい、無理算段して、はやりはじめていたナイロン網に替えたりしたが、猫の育たなくなった浜に横行するネズミに、借金でこしらえたせっかくのナイロン網を、味見よろしく、齧られたりする始末であった」。

 カメラレンズを通したかのように透徹した眼差しで、病床を見つめる、海辺を見つめる。

 この海が「近代の呪術師」に吐かせる、「もういっぺん――行こうごたる、海に」と。

「私」を経由した声なき患者のこのことばは、果たして全き幻聴なのだろうか。

 

 

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