哀愁波止場

 

 幼い頃から、神奈川県民というよりは、横浜市民という意識が強かったと思う。

 小学校の頃から通った横浜スタジアム、そこでプレイする大洋ホエールズの選手たちに憧れた。実際に、大洋の選手たちは実家からほど近い場所にも住んでいて、身近な存在であった。

 そして、横浜港は足繁く釣りに通った場所であり、犬や猫の死体が浮かび、海で泳ごうなどという気がまったく起きない海だった。……

 異国情緒を漂わせていた中華街、さらにはロシアや中国などからの定期便が発着する大桟橋、海を通じて海外とのつながりを感じたのも、幼い頃のことだった。

 横浜の人口は現在370万人強だという。それぞれの横浜に対する思いがあることだろう。横浜で育ててもらったひとりとして、私的な横浜の縁を通じて、見えてきたもの、感じたことを記した。私は、今年50歳になったが、この数十年で横浜は大きく変わったと思う。それは、港の役割であったり、港に付随する形で形成された街の様相だったりする。

 常に変化していくのが街の姿であるものの、大きな変化に対して、時に怒りであったり、悲しみを覚えることも少なからずあった。

 ひとりの男の横浜との付き合いを通じて、横浜ばかりでなく、あなたが生まれ育った土地との縁について考える機会になればと思う。

 

 かつてその場所は遊郭としてにぎわった。沼沢地が開国をもって様変わり、邦人のみならず外国人をも受け入れる、港々に女ありを地で行く場所と化した。しかしその春はあまりに短かった。居住する外国人が各々で愛人を囲うようになり客足が遠のいたところに、とどめの火事で、一夜にして灰と帰した。その地には、あるときはイギリス人たちによってクリケット場が築かれ、またあるときは野球場に、そうして外国人たちとともに積み上げてきた歴史は、ところが皮肉にもそこに捕虜収容所を作ることでひとつのピリオドを迎える。

 そして現在、その地は遊郭とははなはだ異なった仕方で、空前絶後の観客を集めることに成功している。日に3万人をコンスタントに動員し続ける、ハコモノ興行の聖地、そう、横浜スタジアムとして。

 

 赤レンガ倉庫が築かれた契機は、いうまでもなく港湾貿易だった。明治の時代の主要な輸出品といえば絹糸。ちょうど現在の16号線をなぞるように、その線上には日本版シルクロードが広がっていた。中継地点の蚕都・八王子をさらに遡ると富岡製糸場にたどり着く。ここにもまた、赤レンガの倉庫が築かれている。

 奇しくも、この後の文化遺産が民営化された年、群馬にて当時としては画期的な命令が制定される。廃娼令という。もちろんキリスト教道徳に基づくロビイングもあっただろう、しかし、全国に先駆けてこの地にて採用されたのには、別の動機が作用していたのでは、と筆者はにらむ。というのも、その労働の担い手といえば、なんといっても女性である。「廃娼令が出されれば、必然的に娼婦としての働き場所が減ることにもなり、労働者を確保する利点が見え隠れする」。

 

 地図を見るだに、整然とまっすぐに延びる鶴見の海岸線、自然の造形によっては生まれることはないだろう。もちろん、20世紀に入ってから埋め立てによって作られている。貿易港の地の利を生かすべく、その場所には間もなく企業が相次いで進出、今に至るまで京浜工業地帯の主力を担う。

 巨大な雇用が生まれれば、そこには当然のように「三業地」もついてくる。「芸者置屋待合茶屋、料理屋の営業が警察により許された場所のことで、平たく言えば今日の繁華街で、全国各地に存在していた」。

 

 誘蛾灯のように、男が集う場所にはやがて女もまた集う。

 いかなる街を探ろうが、繁栄の繁栄の系譜を探る営みは、色街の歴史の発掘に限りなく重なる。

 

 黄金町。まるで青木雄二によって命名されたかのようなこの街は、斜陽に堕ちて既に久しい。

 コロンビアなどの外国人娼婦が一斉に摘発されてすっかり賑わいを失ったその街の一室を、かつて筆者は間借りしたことがあったという。かつて売春が営まれていたその「部屋の借主ではあったが、何だか娼婦たちの部屋にお邪魔しているような気分になったのだ。時に、部屋に泊まって、霊感などこれまで感じたことのなかった私が金縛りにあったり、パチパチというラップ音が絶えず聞こえたりした。サボテンを置いても、すぐに枯れてしまったり、亀を飼ったら、一カ月も経たずに死んでしまうなど、部屋は私が生活することを拒んでいるような空気を濃厚に漂わせていた。

 縦長で二畳ほどの部屋は、この街を去っていった娼婦たちの棺桶のように思えた」。

 その近くにストリップ小屋があった。もっとも閉業したのは2012年のこと、無許可の性的サービスを提供していた件で警察の摘発を受けたことにより終焉を迎えた。手コキで1000円、そんな雀の涙をもってしてでも閑古鳥の泣くその時代の遺物を守らねばならなかったのは、何よりも数少ない常連客の存在ゆえのことだった。

 そのひとりが、肺ガンに蝕まれた爺さん、略して通称ガンジイ。手術を前に看板女優と写真を撮る、「これ以上のお守りはない」と彼は言った。「ストリップにしかない剝き出しの女の温かさ」がそこにはあった。大病を経て、天命のはかなさを知り、はじめてそんな世界を覗き見た。

「あの劇場に集まった面々は、今は何によって心の安寧を得られているのだろうか。劇場というものは、間違いなく世の中を支える大きなパーツではなく、日本の人口から比べたらごく僅かな人々を癒すための小さなネジのような存在だったと思う。私は、小さな部品が結集して、日本という国が形作られていると思う。その小さなネジが無くなっていくということは、少しずつ社会の土台が崩れていく前兆のように思えてならない」。

 

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