自然の中で冷たい水に浸かると、一瞬にして心と身体が目覚める。それは原初的な本能、野生といった身体感覚が呼び覚まされるからだろう。水に浸かることは陸上とは異なり、「ほぼ裸」で身体をさらす営みだ。それゆえに自然に包まれていることをひときわ感じやすい。そうして身体の感覚が研ぎ澄まされるからこそ、生きていること(自己の存在)を実感できる。水から上がると、目に映るすべてが鮮やかに感じられ、充足感や自己肯定感が生まれるから不思議だ。
ただ、課題が生じる。
では、いったいどこで泳げばいいのか、どこで水に浸かればいいのか、と。……
日本ではほとんど知られていないものの、「海のプール」がベストではないかと考えた。海だけどプール、プールだけど海、という存在だ。つまり、海辺にある海水プールのことを指す。岩礁を掘ったり、必要最低限のコンクリートで海を囲ったりしたものだ。その多くは潮の満ち引きを利用して、海水が自然に循環するようにつくられている。……本書ではそのようなプールを「海のプール」と呼びたい。……
では海のプールは、いったいどこにあるのだろう。
全国を見わたすと、現存する海のプールの数は決して多くはなく、……およそ20箇所と考えられる。海のプールは全国に点在するとはいえ、一般的には馴染みが薄い。多くは都市圏から離れていること、離島に存在することが、その背景だろう。裏を返すと、アクセスしにくい「稀少種」のプールだからこそ、その存在はとびきり美しい。景観や海、プールの美しさに加え、「混雑とは無縁の自由」も謳歌できる。
あるところでは「オヤビッチャやイスズミ、ミヤコテングハギ、シマハギ、ツノダシ」、またあるところでは「ロクセンスズメダイ、ルリスズメダイ、ムラサキモンガラ」、そして別のところでは「マアジの群れが横切り、シロギスが白い砂地を這うように泳いでいる」。なるほど、カルキを効かせたそこらのプールでは決してお目にかかれない光景だろう。
「海洋成分のミネラルが肌の保湿や新陳代謝を高めるなど、海水には美容面や精神面での効果もあるとされる」。あくまで「される」という留保はつけた上で、仮にそれが真理であったとするならば、この効用も街中の人工プールには期待できまい。
海水浴をしたければ砂浜にでも行けばいい、ただしそこが人工インフラの強み、浅深はコンクリートでデザインできる、波にさらわれる心配も少ない、ゆえに子どもも遊びやすい。
いや、遊びやすいのは大人も同じ。「思い立てば、すぐに旅立てる場所上がる。海に触れあえる場所がある」。そんな感触を求めて「海のプール」に繰り出せば、疲れ果てていたはずの頭からついいろいろなことが湧き出して、あれやこれやと語りたくもなってくる。青森から秋田へと日本海に沿って「海のプール」をはしごをすれば、「一日にして人生の季節を駆け抜けてしまった――そんな悲しみ」が迫らずにはいない。誰を誘うこともなくひとりきりで出向いてしまうのは「『海の喫茶店』のような感覚」を求めてのこと、そこは「野趣を感じられる場所でありながら、同時に『一人ぼっちではない、囲われている安心感』も得られる」。
そうして彼は水から学ぶ、自ら学ぶ、「憂い顔で厭世的に生きる暇など大人には、と。機嫌よく生きるのは大人の義務だ、と」。
ニッチなテーマをめぐって書かれた、そんなごくごく益体もないエッセイのはずだった。
そう、2024年を迎えるまでは。
この訪問記は、「海のプール」としては唯一の有形文化財に足を運ぶところからはじまる。自然の岩礁を活かしたそのプールは、ほんの半年ほど前、本書が出版された段階では「今も使われている海のプールとしては、日本で最古のものだろう」、そしてこの表現は既に過去形へと書き直すことを余儀なくされている。
この鴨ヶ浦塩水プールをあの地震が直撃した。海岸線の隆起により今や干上がり、もはやその場所に「『海』にいるかのような錯覚」を抱く者は誰もいない。
本書はそんな失われた土地の記憶を閉じ込める。
筆者がこの場所を訪れたのは、奇しくも夏休みの昼下がり。地元の小学生が集まってきては、高さ2メートルほどの岩場からプールに向かって飛び込んでいく。やがて物足りなくなった子どもが、さらに高い崖から外洋に向かってジャンプを試みる。
そんな彼らに注意を促す青年がいた。聞けば休暇の帰省中、「こんなとこ、なかなかないでしょ」と幼き日の自分をおそらくはダブらせながらその光景を見ていた。
すると男子三人が崖から飛び込む。「しょうがねえな」と言いながら、万が一のためか、衣服のまま青年もその後を追う、ライフセーバーでもないのに。間もなく彼らの無事を確かめた青年は、さらに峻厳な崖をよじ登ると、高さ6メートルはあろうかというその場所から改めて「お前たちは絶対だめだからな」と釘を刺しつつリープする。
「スローモーションのように長く思える瞬間だ。海面上に小さな水しぶきが上がると、歓声が上がる。……子どもたちは拍手で迎える。『かっけー(かっこいい)』と」。
学校では教えてくれない、教えられないことがある。きっと青年も子どもの頃に同じような無茶をしてそれを救うべく飛び込んでくれるヒーローを見た、高くから美しい弧を描くヒーローを見た。ヒーローが次なるヒーローを作る、「こんなとこ、なかなかないでしょ」、そしてその継承は、天災をもっておそらくは途絶えた。
一縷の望みは、語り継ぐことのなかにのみある。