エデュケーション

 

 本書では、日常、茶飯、女性をキーワードに据え、日常茶飯の様々な局面において、人びと、とりわけ女性たちが「生きる」ことについて、これまでどのように向き合ってきたのか、そして向き合っているのかを問うことを目的とする。そしてその向き合い方は、時代によって、地域によって、産業によって共通点があるのか、それとも相違点があるのか、ということを考えてみたい。

 その問いに答えるために、今から1世紀以上前に遡り、日本とアメリカの産業革命期に関する資料の中で私が出会った女性たちを通して、産業革命期を生きた人びとのライフヒストリーと激動する社会の様相を重ね合わせながら、その関係を論じていく。一見、些末に見える日常茶飯の場面でも、レイヤーとして重ねていくことで、複雑な社会や人間関係が浮き彫りになることがある。……

 アメリカ合衆国で展開した……女性の社会への働きかけや思索と実践は、それを直接見聞きしていた日本人留学生の女性たちによって日本でも試行された形跡がある。ところが、彼女たちの内面に育まれた新たな社会への渇望と希望は歴史に埋もれて忘れられ、再評価されることなく現在に至っている。「わたし」を獲得するために奮闘し、葛藤した数多の女性たちのライフヒストリー、未だ語られてこなかったこのダイナミックな「斗いの歴史」を、日米女性の思考の交流史として読み解いていくことにしよう。

 

 このテキストの中で、とある意外な史実が紹介される。

 1918年夏、魚津にてはじまったいわゆる米騒動がそのトピックである。投機筋がシベリア出兵に乗じて米の買い占めに動いた末に、家計を預かる女性たちが価格の高騰に面して怒髪天を衝きついには暴動へと至り、次いでその報道を受けるや否や、富山を起点に全国各地へと燎原のごとくその輪が広がっていった、として通説的には語り継がれる、「民衆暴力」の発露とも呼ばれるべきあの出来事である。

 しかし「無知で貧しい人びとが起こした恥ずかしい騒ぎ」というこの評価は、近年の各種史料の見直しによって、著しく見当違いなものであったことがどうやら明らかにされつつある、という。当時の女性たちは、暴力になど訴えてはいなかった。明治期に魚津の議会で既に議定書が交わされていた貧民救助制度の発動を求めた嘆願であり、そして結果、「魚津の米騒動は話し合いで済んだがやちゃ」。幕末期から既にこの地では伝統的に、生活苦に面して「単発の一揆や騒動ではなく、地域の歴史に培われた女性による一種の長期的、定期的な社会運動」が営まれており、この折に際してもその平常運転が作動していたに過ぎない、というのがどうも真相らしい。彼女たちは締結済みの同意を武器に無血で米を勝ち取った。

 もっともそうした指摘は、長きに渡って黙殺された。全国的な暴動の広がりによって遡及的に、その震源地においても根底から意味が書き換えられた。つまりは、「魚津の米騒動がいつの間にか都市の男性が語るマスター・ナラティヴに回収されていった」。

 

 別に、本書のほんの一部を構成するに過ぎないこのテーマにばかりフォーカスを当ててレヴューと代えるつもりはない。あえて長々と取り上げたのは、実態を遊離していく魚津をめぐるこの上書きの指摘こそが、逆説的に本書のサマリーを構成してしまっているのではなかろうか、という疑念がどうにも離れないゆえである。家内制手工業からマニファクチュアの集約労働へと移りゆく社会の中で、それに翻弄される日米それぞれの女性たちをつなぐミッシング・リンクを再発掘せんとする本書の「マスター・ナラティヴ」によってそもそものムーヴメントの意味が根本的に更新されていくというその図式が、米騒動をめぐる一連の語られ方とあまりに重なり合ってはいないだろうか、という疑問がどうにも頭をもたげてしまうのである。

 

 私がこのテキスト内にてたまらなく興奮を誘われたシーンがある。それは高井としを『わたしの「女工哀史」』から引用される一節。自らが勤める工場で立ち上がったストライキの決起集会、参加こそしてはみたものの、講演で語られるテーマは「むつかしい話が多く、私たちはぽかんとした顔でき」くばかり。その最中、矢も槍もたまらず彼女は壇上に立ち呼びかける。

「みなさん、私たちも日本人です。田舎のお父さんお母さんのつくった内地米をたべたいと思いませんか。たとえメザシの一匹でも、サケの一切れでもたべたいと思いませんか。街の人たちは私たちのことをブタだ、ブタだといいますが、なぜでしょう。それはブタ以下の物を食べ、夜業の上がりの日曜日は、半分居眠りしながら外出してのろのろ歩いているので、ブタのようだというのです。私たちも日本人の若い娘です。人間らしい物をたべて、人間らしく、若い娘らしくなりたいと思いますので、食事の改善を要求いたしましょう」。

 この「どこか他人事のいわば『大文字』の議論ではなく、日常茶飯に目を向けた『等身大』の抗い」は、その日「一番よく拍手をいただきましてね」。

 この「等身大」性こそが共感を呼んだ、「わたしたち」を作り出した。奇しくもcompanyの語源は、ラテン語com-panis、つまりは共に‐パン(を食らうこと)にある。日本語に直訳すれば同じ釜の飯を食らうこと、お仲間とはすなわち同釜に他ならない。同じ「ブタ以下の物を食べ」させられて酷使された同士ゆえにこそ、はじめて生まれたシスターフッドがある。勝手口からはじまった魚津の社会活動にしても、全く同じことが言えるのではなかろうか。

 そもそもの話として、なるほど確かにアメリカとの接点がなければ、産業構造の転換もなく、ストライキもなく、従って高井の名演説も生まれ得なかった。女工の悲哀に一脈ならず相通じるところもあろう。しかし「日常茶飯」が催した親密性のサークルに対して、アメリカにおける「わたしたち」の連帯の歴史を持ち出したところで、むしろここでは「『大文字』の議論」としてしか機能しない。無知な彼女たちがそんなことを知っていたわけがなかろうなどとあざ笑いたいのではない、「等身大」をはぎ取る作用しか果たしていないようにしか感じられないのである、それはあたかも、米騒動のマスター・ナラティヴが魚津の人々の「等身大」を消し去ったのと限りなく同じ仕方で。

 「日常茶飯」という一回性の消え物に端を発する出来事が、実は一回性ならざる重層性を秘めていた、というその論旨は分かる。しかし、あえて「焼き芋」であること、あえて「ドーナツ」であること、あえての一回性ゆえにこそ生まれているライフヒストリーのきらめきが捨象されているというのは、単なる私の誤読にすぎないのだろうか。

 ソクラテスの産婆術そのまま、眠れる理性が起動する、そこにこそeducationの本義がある。たかが「焼き芋」だからこそ、たかが「ドーナツ」だからこそ、そこに萌え出る「わたし」がある。

 

 パンがなければケーキを食べたらいいじゃない?

 今なおバズり続けるこのキラー・ワードは専らマリー・アントワネットの言として語り継がれる。ジャン⁼ジャック・ルソーに典拠するこのフレーズを果たして彼女が本当に吐き捨てたのか、は重要ではない。ここで着目すべきは、この破壊力がパンという「日常茶飯」なるがゆえにこそ宿され、今日の人々の胸にすらも深く突き刺さる、というその事実である。

 そしてその当のルソーは、社会契約の基礎を「憐れみpitié」に置いた。深遠なる理想やヴィジョンという「大文字」の何かではなく、不条理をめぐる痛みの共有のみが、ポスト独裁、ポスト寡頭の政治体を可能にする、それが彼の洞察だった。他でもなくパンを取り上げたその霊感の持ち主は、「憐れみ」の根底に必ずや「日常茶飯」を見ていた。

 

 女性たちが手を取り合う連帯は舶来概念ではない。「日常茶飯」がたまらなくそうさせる。

 

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