リバティアイランド

 

 これは本屋を始めてから気がついたことなのですが、どうも本屋はユートピア(を目指すこと)と同じ、ないしは似ている存在のようです。本屋には終わり、あるいは完成形というものがありません(もちろん「閉業」という終わりは数えきれないほどあるけど)。……

 常時変化する本棚を相手に、理想の本棚を追求すること。あるいはひとつ視野を広げて、本棚の集合である本屋全体の理想形を追求すること。その営みに終わりはなく、ゆえに本棚/本屋の完成形というものは存在し得ないし、もし仮に完成してしまったら、それはつまり変化のない=本が手に取られない本棚=売上の立たない本屋ということになり、結果として閉業という名の終わりがやってくるわけです。

 となると本屋がやっていることは、「理想の本棚/本屋を目指し、完成しないユートピアに向かって一歩ずつbetterを積み重ねていく」ことなのだと思います。そして完成したと思って日々のアップデートを怠りはじめた瞬間から、ディストピア=閉業の危機が近づいてくる、とも言えるわけです。

 

 筆者が経営する本屋lighthouseは、とある特色をもってつとに知られている、つまり、「いわゆる『ヘイト本』や『歴史修正主義的な本』……に該当する本は、本屋lighthouseでは一切扱いません」というマニフェストの実践をもって。

 なぜにこれしきのことがクローズアップされてしまうのか、と疑問に思われる向きもあるかもしれない。肉屋や魚屋が自らの目利きをもって市場や仲買から品物を仕入れるように、本屋だって店員がセレクトしたテキストを棚に陳列するのって当たり前のことじゃないの、と。昨今の社会情勢の中で、そうした選書の傾向が一部界隈にもてはやされているだけじゃないの、と。

 ところがこと新刊書店においては、売り手のセンスをラインナップに反映させるというこの当たり前を困難にする要素が横たわっている。

 というのも、なにせ「日本では一日平均200点ほどが『新刊』としてこの世に放たれ、それがほぼ毎日続いてい」る。例えば青果市場に日々200点の新種が運び込まれてくるなんてことはまさか起きない。従って、原理的に「本屋は新刊一点一点を『すべてチェックして発注する』ことは不可能です」。ではどうするか? ここに「主に同ジャンルや同著者の過去実績、類書の売上実績、店舗規模などですが、そういった各種データをもとに取次(ないし出版社)が『最適数』を納品してくれる」という「配本制度」の必要が説明される。ところが、この埋伏の毒に食いついたら何が起きるといって、皆さまご存知の通りである、どこの店舗を訪ねたところで橋下徹古市憲寿の面を拝まされる、SFディストピアをはるかに超えた、曰く「本屋の無色透明化」である。そのオートメーション・システムの中で、それなりにニーズがあるというその一点を根拠として、ヘイト本ネトウヨ本が送り込まれることとなる。そして本屋は一様に、すなわち「無色透明」に訴える、「配本されてきたから」、「一点一点チェックしきれるわけじゃないから」、と。

「他業種のことを考えてみれば、本屋の異常性がはっきりとわかるはずです。たとえば八百屋が腐った野菜を置いていて、それをお客さんが買ってしまったらクレームを受けるのは八百屋です。もちろん入荷時から腐っていた場合もあるでしょうし、そうなると卸売業者や農家にも責任は生じます。でも、それが腐った野菜であるということを認識できなかった八百屋にも責任がいっさいない、なんてことにならないのは納得できるでしょう」。

 幸か不幸か、腐った野菜を掴まされた場合であれば、その害はただちに何かしらのかたちで表れてくる。まずくて吐き出してしまうとか、それ以前に異臭がするとか、普通に飲み下せても場合によっては病院送りなんてこともあるやもしれない。いずれにせよ、そんな品物を掴ませた八百屋をそうそう使おうとは思わないだろう。

 しかし、一冊のヘイト本はただちに健康上の被害を露呈させるわけではない。とはいえ、つまらないから、稚拙だからと、その書き手や出版社の本は二度と手に取らないという自己防衛作用が必ずしも働くとも限らない。もっとも一個人レベルでは、いともたやすく触発されてネットに書き込んでみたところで、その段階ではもはやありふれたスピーチのひとつとして有象無象に埋没するに過ぎない。しかしそうして各人の間に積み重ねられて閾値を突き破った差別感情が、例えば関東大震災に乗じた殺戮を生み出したことも、例えばナチスの優生思想を導いたことも、例えばマイノリティへのヘイトクライムを今日なおも世界の到るところで誘発させ続けていることも、例えばロシアのウクライナ侵攻を帰結させたことも、そのヘイトをすっかり内面化させた当の彼らは決して認めようとはしない。その源流を遡れば、折からの出版不況の中でそれなりの部数が見込めるというだけの理由で魂の殺人に能動的にコミットする罪を、出版社も、取次も、そして本屋も決して認めようとはしない。

「置きたくない本を置かない自由」、それを行使してなぜ悪い? むしろこの現状、自らの自らに対する新しい戦中にあって、とうに確定したその敗因を探るとき、本屋のみならず各人が問われるべきは、「置きたくない本を置かない自由」を行使しなかったその不作為、「嫌なものに嫌だという自由」を行使しなかったその不作為に他ならない。何の変わり映えもしない、例えば白物家電コーナーという均質極まる焼け野原を思うとき、売りたいものを売る、作りたいものを作る、そんな当たり前を当たり前にできない「無色透明化」がゼロ成長社会を導いたことを思うとき、「完成したと思って日々のアップデートを怠りはじめた瞬間から、ディストピア=閉業の危機が近づいてくる」という箴言は、決して本屋に固有のメッセージではなかったことを知らされる。

 

 そうは言っても、本書最高の名言の通り、「積読=自店の棚!」なのである。まさか筆者が自身の並べるテキストのすべてを熟読玩味できているはずもない。

 そこで配本制度に代わって筆者が活用しているのが、「巨人の肩に乗る」ことだった。平たく言えば、自分で選べないのだから、主にSNS経由で信頼できる他人に任せてしまうのである。

 この選択はいみじくも書物が着々と築いてきた長き歴史そのものを反映する。

 人間はAIのようにゼロベースで学習を積み重ねることなどできない、テキストという名のパラダイムやメソッドの集合体を参照してその延長線上に何かしらを積み上げていくことしかできない、それがもしかしたら巨人をさらにほんの数ミリ巨大化させている営みなのだと信じることしかできない。

 その当時に生を享けていない私は、例えば太平洋戦争のリアルなど直に目撃できたはずもない。体験者から聞き取ろうにも実際にコンタクトできるネットワークなど限られている。もちろん、時間制限も予め設定されている。だからこそ、本を読むのである。論理的整合性などは確認しつつも、記述を通じて想像の中で追体験する、そんな惨禍を二度と味わわずとも済むように、「巨人の肩に乗る」のである。

 コト消費を声高に叫びたがる連中はすべからく、その「無色透明」な自己の一生の定型文性を理解するほどの知能すら持たないまま、ゆりかごから墓場まで運び去られる。まさしく比肩しようもない、たかが一個人の生涯など、一冊の書物なるモノにすら及ばない。

 誰かを、何かを信じることでしかおよそ知なるものは成り立ちえない。無責任に他人に丸投げしているわけではない、「巨人の肩に乗る」とは、まさにテキストなるものに対する、正当な、正統な、向き合い方なのである。

 

 国民とは、日々の人民投票である。

 そう定義したのはエルネスト・ルナンだった。テキストというメディアの性質に鑑みるとき、本屋はその格好の舞台を構成する。

「本に限らず、生きることのすべてに関してのその都度都度の選択が、私たちの生活=政治に直結している。本屋=政治家と捉えた場合、あなたが買った本が本屋の品揃え=選書行動に影響を及ぼすことは、まさに政治運動の賜物です。本の取り寄せを頼むことは政策に対するリクエストをすることと同じですし、行きつけの本屋を変えたことは投票先を変えたことと同義です」。

 好きなテキストを選ぶ、好きな本屋に行く、好きな人と付き合う、そんな半径数メートルの日々の積み重ねの先にしか、まともな世界は広がっちゃいない。betterな世界は、betterなストリートから、betterな本屋からはじまる。

 良き隣人と付き合うことと良き積読を並べることは、限りなく似ている。

 

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